霊的生活とチマッティ神父   




チマッティ神父の一番普及している写真

チマッティ神父の一番普及している写真

イタリア大使からの受勲式後の記念写真

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  神との絶え間ない一致   


 ドン・ボスコの特徴の一つは神との一致でありました。 この点でチマッティ神父は完全にドン・ボスコを模倣したと言えると思います。 チマッティ神父は86歳の長い人生の中で多くの活動をなさいましたが、それに内的な力を与えたのは神との絶え間ない一致でありました。 高齢者になって、身体が思うように応えてくれない時でも、人を驚かせる陽気さを保っていました。 その秘訣は、深い霊的生活の表れである、彼のいくつかの確信に見られます。
 「過去は神の手にあり、将来は一つの神秘で、今と言う瞬間のみあなたの手にあります。これを有効に使いなさい。 行いの結果を神に委ねなさい。心の平和を保ちたいなら、これは唯一の道であります」。
 チマッティ神父にとって、キリスト教的な聖徳とは神と人を愛することと今果たすべき務めを喜んで果たすことでした。



   歌いながら願いなさい    


 病気で悩まされていた若者にこの勧めを与えていました。
 「歌いなさい。神のみ旨が自分において果たされるよう一日に何回も歌いながら願いなさい。 主に喜ばれるために、嬉しい時も、苦しいときも、自分と自分の気持ちを差し置く必要があります」。
 「十字架とは主の愛のしるしであるが、それをキリストと共にキリストのために背負わないと耐えられるものではありません。 犠牲のないところには聖徳はありません。微笑みを持って苦しいことを受け入れることが出来るようになっているならば、 それは聖徳の道を歩んでいるしるしであります」。



   自分の苦しみや悩みに対しては微笑む    


 さて、チマッティ神父の生活には苦しいことがあったのだろうか。いくつかのことだけを並べてみます。 「来日した時46歳であったのでことばの問題、いつも外国人の目で見られたこと、苦労しながら育てた若者の裏切り、 期待を抱いていた若者の死亡、近い人の妬みと無理解など」です。
 ところが、苦しんでいた人に対する彼の態度は共に苦しむこと (tristis est anima mea―私の心は悲しみに満ちています)で、 自分の苦しみや悩みに対しては微笑む(superabundo gaudio―私の心は喜びに溢れています)ということでした。



   それは、 <cima dei matti (頂点・気違い)>    


 「聖性の道を歩む場合には、大事なのは、辛抱強さと忍耐です。一滴の水は、時間が経つに連れて、 岩にも穴を穿つように、毎日、意志の一つの努力、自己放棄を求める一つの行いを全生涯にわたり実行し続けること」。
 「勇気を持って、平静さと喜びの内にイエスの後を歩み続けること」。
 「私達の不完全さも聖性に役立ちます。私達に、決して傲慢になってはならないと思い出させるからです」。
 チマッティ神父は自分のことをどう思っていたのでしょうか。
 「私は死んでから、自分の罪を償うために、主の最後の裁きの日まで煉獄にいると思います」。
 チマッティ神父は子供の時に一つのあだ名で呼ばれていました。それはCIMATTIと言う名字の発音からつくられていました。 それは、 <cima dei matti (頂点・気違い)> 自分が「気違いの一番の者」であると見なしていました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 10月 6日


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