私は何回も本会の学校に使われている、いわゆる「予防教育法」について、口頭かまたは文書でまとめるように頼まれたことがあるが、今まで時間の関係でこの願いに応じることができなかった。

 しかし、今回は従来の「校則」出版するにあたって、いつか出そうと考えている小冊子のあらすじといえる要点をまとめようと考えた。神が余命を与えて下されば、青少年の教育という至難の業のために、いつかこのような本を完成するつもりである。

 さて次の順序で内容をまとめよう。
 1.予防教育法とは何か、またなぜこれをとるべきか
 2.予防教育法の実践について
 3.予防教育法の効果について

1.予防教育法とは何か、またなぜこれをとるべきか

 青少年の教育に通常使われてきた教育法には二通りある。すなわち禁圧的教育法と予防教育法である。
 禁圧的教育法とは生徒に規則を周知させた後、違反者を見つけるために監視し、見つけた場合それに相当する罰を加えることである。この教育法では、先生の言葉と表情はいつも厳しく、むしろ恐れを抱かせるものでなければならない。従って生徒との親しい関係を避けるのが原則である。校長についていえば、権威を増すために、生徒の前にあまり出るべきではない。出るのは罰か警告を与える時だけであろう。
 この教育法は楽で骨おりも少ないと思うが、特に有効であると考えられるのは、軍隊または判断力のある大人に対してであろう。このような人たちなら法律と規則にあう行動を自分でわかるはずだからである。
 予防教育法はこれと違うというよりも、むしろこれと正反対であると言った方がよい。 もちろん学校の規則や規定を周知させるが、この教育方の根本は校長や担任の先生がいつも生徒に目を配りながら、愛している父のように話しかけたり、あらゆることに指導者となったり、愛情をもって励ましたり、注意を与えたりすることである。言いかえれば、生徒の落度を前もって不可能にすることである。 この教育方のすべては、道理、信仰、愛情に基づく。従ってあらゆる体罰を除外し、できれば軽い罰も避けるようにするのである。次にあげられる理由から見て、この教育法の方が良いと思われる。
 生徒はあらかじめ注意を受けているなら、落度があっても、直接目上に告げられる時のように悲観したりすることはないであろう。また怒ることはないであろう。なぜかというと、忠告を受ける時、また罰を予告される、あるいは与えられる時、納得に訴えながら心が通じる友の注意があるからである。かえって生徒自身は罰の必要を認め、あるいは時には自分から罰を望む気持ちになることさえある。
 もっとも本質的と思われる理由は、規則や罰則をすぐ忘れてしまう青少年の気持ちの軽さである。子供は悪い事をして罰に値する場合、それを考えもしなかったか、あるいはその場で全然思い出していなかったことがしばしばある。従って注意をしてくれている友の声がったなら、その悪いことを避けたであろう。
 禁圧的な教育法では、たとえば違反を止めることができても違反者を改めさせることは普通できないであろう。経験が示すように、青少年は受けた罰をなかなか忘れない。その上、大抵反感を抱き、いつか首を振り落として復讐したい気持ちになる。たいして気にしていないかのように見えても、青少年の行動に経験のある人なら、その執念の恐ろしさがわかるであろう。親の罰は簡単に忘れても、教育者の罰は簡単に忘れはしないのである。大人になってから、若い時に受けた罰に対して、しかも正しかった罰に対しても復讐した例さえもある。 かえって予防教育法の場合、生徒は先生を友達としてみなすだけでなく、先生の中に自分を悟し、善へ導き、悩みや罰や不名誉から救ってくれる恩師を見いだすようになる。
 予防教育法では、その指導を受けた生徒に対して、先生は在学中だけでなく、その後いつまでも心に訴えることができる存在となる。先生は一度生徒の心をつかめば、深い影響力を持つようになり、生徒が就職してからも先生は注意や勧めや戒めを与えることができるであろう。 ここに述べた事や、他の多くの理由で、予防教育法が禁圧的教育法にまさるということができよう。

2.予防教育法の実践について

 予防教育法の実行はすべて次の聖パウロの言葉に基づいている。「愛は寛容で慈悲に富む。全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ。」だから、キリスト教的精神をもっている人だけが予防教育法を効果的に実行することができる。教育者は、いつもいかなる場合にも義理と信仰に訴えながら行動するものである。もし生徒の従順を欲するなら、また自分の目的を達成したいとのぞむならば、以上の事を教えると共に、まず、自分自身が実行しなければならないのである。
  校長は自分の生徒のために完全に身を捧げる者でなければならない。その意味で自分の任務を妨げる他の仕事を引き受けてはならない。生徒がそれぞれの務めに従事している時以外、校長は生徒と一緒にいるように努めるべきである。  教科や職業の教師や、担任は生活面で模範的な人でなければならない。先生は特定の生徒への愛着や特別扱いをペストのように避けるべきである。
 たった一人の先生の落度で、教育事業全体ガ危機に陥りうることを忘れはならない。 生徒は先生不在で放任されることがないように。担当の先生はできるだけ生徒に先だって集合の場所につくようにし、次の先生に引き継ぐまで生徒と一緒にいること。何もすることのない状態に決して生徒をおいていかないこと。生徒には跳び回ったり、走ったりして発散する機会を大いに与えよう。スポーツ、音楽、発表会、演劇、遠足等は規律や道徳、健康のために、非常に効果的な手段である。ただその内容やそこで交わされる話が健全であるように気を付ける必要がある。「罪さえ避ければ何をやってもよい」と青少年の友フィリッポ・ネリが言った通りである。
  教育活動から強制やムチを遠ざけたいなら、支えとなるべきものは信仰生活の実践である。だが生徒にそれを強制してはならない。ただ参加する便宜を与え、それを奨励するだけである。なお、練成会、祝日の準備、説教、宗教研究の機会がある度に、これほど社会生活と心の安泰に役立ち、人間の心の救いをもたらす宗教の偉大さ、その尊さ、その美しさを強調するように。そうすれば生徒は自発的に宗教行事に参加し、そこから喜びと豊かな実りを得るであろう。(ここにドン・ボスコは(注)の中に、さきほど記したイギリスの見学者の話を入れている。18ページ参照)
  教育施設の中に、悪い友達や悪い本や邪悪な話をする人が入らないように気をつけよう。その意味で、信用できる受付の人は教育事業の宝である。毎晩夕の祈りの後、就寝の前に校長またはそれに代わる者は、皆に対してその日の結びとして何か知らせるべきこと、あるいはした方がよいこと、また避けるべきことなどについて必ず心をこめて一言話すように。できるだけ日常生活の身近なことからヒントを取り、話は二、三分をこえないこと。この短い話は生活態度を改めさせ、教育を効果的に行なうためのカギといえよう。 ある年齢に達しなければ、子供に御聖体を授けるべきではないという考え方をペストのように避けよう。そう言う年になると悪魔は素早く青少年の心を支配してしまって、大きな損失を与えるようになる。(省略)  子供が自分なりに物事の意味がわかれば、また充分に準備をさせられたならば、若いうちに早く神に心を委ねるようにすべきである。
  〔訳者注 ここで、ドン・ボスコが触れている問題は、当時の教会の、一般的な習慣のことである。子供は十二歳くらいまでならないと、ミサに与かっても御聖体を授けてはいけないという考え方であった。理由は、子供は御聖体を受けるための十分な理解をもつことができないということである。ドン・ボスコ自身は、十一歳の時、一年早く御聖体を許されたくらいである。ドン・ボスコから見れば、この考え方は厳しすぎる。当時のヨーロッパのカトリック界に広まっていたジャンセニスムという厳格主義的な考え方による。ドン・ボスコの時代にトリノ市においてその反動が始まっていた。子供には大人のような判断力と行動を要求するのはもともと無理である。子供には年齢にあった判断力と行動力を要求すれば十分であるとする。ドン・ボスコのこの文章にこの考え方が主張されている。今世紀の始めになって(特に教皇ピオ十世によってこのドン・ボスコの考え方は教会全般に認められるようになった。今日、御聖体を授ける年齢は一般に七歳からとなっている。
 因みに宗教教育に関して、また洗礼を授けることについて、現在の日本において似たような考え方がみられる。大人になってからその決定をすればよいという考え方である。その理由として、こういう決定のために子供は未熟だからである。ドン・ボスコに言わせると、子供はそれなりに意志があるし、またその意志を育てる必要がある。すでに現れている子供の意志を余り消極的に扱うと、結局、宗教から離れてしまうことになる。〕 (省略)

3.予防教育法の効果について

 この教育法の実行は難しいという人がいるかも知れない。ところが、生徒の立場からいうと、むしろ簡単で満足も与え、より効果のある教育法であると言えよう。 教育者の立場からと言うと、もちろん困難を感じることがあろうが、一生懸命にやる人なら、困難は少なくなると思う。
 私にとって教育者とは、生徒のために身を捧げるものである。従って自分の使命を果たすため、言い換えれば生徒の社会的、道徳的、学問的な善、また教育のためならあらゆる不便やあらゆる苦労に直面する覚悟を持っている人であると考える。

  以上の有利な面のほかに以下にあげる利点を加えたい。 生徒は教育者に対していつも尊敬の念を示すであろう。また先生や他の目上を思い出す時、彼らを父や兄弟のように見なすであろう。その上受けた指導はいつも快く思うであろう。こういう生徒はどこへいっても家庭の喜びとなり、市民として社会に役立ち、またキリスト信者としても立派であろう。 入学時の生徒の性格、素質、心の状態がどうであれ、親は自分の子がそれより悪くなる事なく、かえって必ず何か改善があると確信することができよう。
 私の経験では、長年親の悩みの種であり更生施設からも断られてきたある少年が、以上の教育法に従って指導されたところ、性格もかわり、真面目な生活を送るようになって、いまでは立派な職について家庭や故郷の支えとなり、よい評判を受けている。 たとえ悪い習慣を身につけた生徒が入学しても、同僚の害になることはないであろう。まじめな生徒は害をうけない。なぜならば、そういう時間、場、機会がないからである。もしそういう危険があったら、当然そこに一緒にいるはずの先生が、前もってそれを防ぐことになるからである。
 ヨハネ・ボスコ著「青少年教育における予防教育法」