チマッティ作曲  オペラ「フランシスコ・サレジオ」私考

「Padre, mio padre!」(父さん、ぼくの 父さん!)

フランシスコ・サレジオの祈りと按手によって生命を取り戻した少年が発した第一声。
少年の、この言葉を耳にしたとき、ハッと目が覚めた!それまで眠っていたのではない。ハッと気づかされたのだ。オペラ「フランシスコ・サレジオ」のクライマックスはここだ!と。オペラの作者が描きたかったのはこれだ。チマッティ神父が「Padre, mio padre!」をなまのせりふのような音符をつけ、そこを生かすために全編を作曲したのだ。そしてフランシスコ・サレジオの聖人性はここにある!そう理解し気づかされて、私は目が覚めたのだ。

この「Padre, mio padre!」という生きた、なまのような言葉は、それまでの音楽の流れを突然、切り裂き、それまでの音楽を一気によみがえらせて、ドラマ・音楽それにフランシスコ・サレジオという人物を一挙に明るみに照らし出してくれた。突如として降り注がれた天啓のようなクライマックスに、せきを切ったような感動と感激に襲われてしまった。そして、期せずして涙がこみ上げ、胸があつくなった。もっとも少年役のまるで、せりふのように謳い上げた巧さに負うところもあったが。

まずドラマの骨格について。

お世辞にもドラマチックとは言えない。第二幕になってやっとドラマの核になりそうな断片が点景的に羅列されている。フランシスコ・サレジオが人々の侮辱と軽蔑にさらされる場面。そんなサレジオのうちに謙虚さと柔和を見抜くひとりの子供との対話。そして、かつてサレジオを敵視した男の息子が死に、その子の生命を取り戻すという場面。もっとも、そうした場面も愛だの憎悪だの悲嘆だの葛藤だの、ドラマを形成する人間性の内面追求や掘り下げが極めて平坦で平凡。フランシスコ・サレジオがオペラのモチィーフだと聞かされたとき、一体いかなるドラマが成立するのかといった懐疑心が生じ、しばらくはそれがぬぐい切れなかった。せいぜい祝祭的オペラに終始するのではないかとタカをくくっていた。オペラの台本を手にしたときでさえ、これでオペラワールドが展開するのかと、いまだに期待の陽光が射し込む気配もなかった。ところが予期に反して感動を生むオペラに仕上がっていたのは、やはりチマッティ神父の音楽性才能とモティーフであるフランシスコ・サレジオの人物解釈(サレジオの使命は、神を忘れ神から離れてしまい“いのち”を失っていた人々に神の愛を説いて「Padre, mio padre!」という言葉とともに神のもとに連れ戻すこと)、そしてチマッティ神父の霊性に依るものだと思う。「Padre, mio padre!」の詞にせりふのような音符をつけて際立たせたのもチマッティ神父の才覚と意図ではなかったか。しかも、そこをクライマックスに高揚するべく楽曲そのものと全体的構成を造形したからこそ、「Padre, mio padre!」が生きて光彩を放ったのだと私は理解した。

曲想全体の感想としては、どのメロディからも常にフランシスコ・サレジオの柔和な姿と、彼の著作のなかのことばを容易に連想できたし、被造物すべてを良しとして祝福された父なる神のイメージのうちに安らうことができた。

出演者について。

ソリストの方々、演奏者、司会ナレーターについては、皆さんプロの方たちばかりで、私なんかが評価するのはおこがましいので控えることにする。ここで特記したいのは、コーロ・ステッラと調布教会聖歌隊によるコーラスの、目を見張るような健闘ぶりである。はじめから終わりまで安定したコーラスでオペラ全体をどっしりと支え、安心して耳を傾けておられた。コーラスの分を弁え、控えめながら、すばらしいハーモニーと心地よい歌声を聞かせてくれた。イタリア語のコーラスとしてきちんと伝わってきた。ソロならともかく、コーラスでそこまでできたのは大したものだ。プロの舞台に立っても恥ずかしくはないのではないか。わずか2,3ヶ月、しかも週一回程度、猛暑の時期に冷房のない部屋で練習に励んでいたのを垣間見ているだけに、良くあそこまで成果をあげたものだと感心している。コーロ・ステッラと調布教会聖歌隊が時には同じパートを、時には異なったパートを担当していたが、双方の力量に優劣の差をつけがたいぐらい実に感動的で美しく、上出来のコーラスであった。しかもソリストたちをよく盛り上げていた。このオペラをオペラとして聞かせたのは、もちろんソリストたちの功績ではあるが、オペラとしての存在感と安心感を与えたのはコーラスではなかったかと思う。

コンサートの終わりに例によって出演者、観客全員がチマッティ神父の「アヴェ・マリア」を合唱した。今更ながら、親しみやすい名曲だと思うし、優れた祈りだ。これからも多くの人に愛され歌い継がれてゆくにちがいない。「アヴェ・マリア」はチマッティ神父そのものだ。

この合唱中、最後に目にしたひとつの場面が忘れられない。それは「Padre, mio padre!」と謳った少年役の子供と、父親役のソリストが一枚の楽譜を手にして「アヴェ・マリア」を一緒に歌っている光景だ。しかもその父親役のソリストが、子供の視線に合わせて屈みこみ、子供に寄り添うようにしている姿だ。演技ではなく暖かい実の親子のように見えたし、かつ肉のつながりを越えた普遍的な親と子に見えたことだ。そして、その二人のうちに「Padre, mio padre!」という声を待っている父なる神と、神の愛に目覚めて“いのち”を取り戻した私たち人間のありさまを思い浮かべることができた。また、その光景を目にしたことでオペラ「フランシスコ・サレジオ」のほとぼりがいつまでも冷めることはなかった。

最後にひとつ夢を。

チマッティ神父の歌曲もオペラも、特別な機会の依頼を除いて、大部分が男声のために作曲されたもの。作曲された当初の状況を思えば、男声(司祭、神学生、大人の男性、青少年、幼い子供たち・・・)を想定した曲作りだったはずである。それが再現できたらチマッティ音楽の別の魅力、むしろ本来の魅力が見えてくるのではないか。それをいつか聞いてみたい。

2007/10/07 調布にて
藤川 神父

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