Last Update: 2014-09-25

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もくじ(最新順) 

音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.7 オペレッタ「天正少年使節 帰る」−全二幕− 2016年6月6日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.6 オペラ「支倉六右衛門」−全二幕− 2016年10月6日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.5 オペレッタ「カルマ」−全二幕− 2016年5月6日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.4 オペラ「細川ガラシア」−全三幕− 2016年3月9日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.3 「Ave Maria di grazia piena」Solo 2014年9月25日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.2 「アヴェ マリア」 2014年9月25日発売
  音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.1 「ピアノソナタ」 2014年9月25日発売

 


音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.7 オペレッタ「天正少年使節 帰る」−全二幕−  4000円+税

天正青少年使節(1582年-1490年)
 信長の時代、巡察使ヴァリニャーノはキリシタンの子弟を養成するために有馬で「セミナリオ」を創設し、さらにいわゆる「天正少年遣欧使節」、伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアンという四名の少年を、西洋のキリスト教国やローマを訪問させることを企画した。
 彼らは1582年に長崎からインド、アフリカを回り、ポルトガルとスペイン経由で1585年ローマに着いた。そこで教皇グレゴリオ13世から暖かい謁見を受け、その後継者シクスト5世の選出祝いにも参列し、日本の使節として初めてローマの市民権を与えられた。 その後イタリアの主な町でルネサンスの文化を体験し、日本の王子としての待遇を受けた。再びスペインとポルトガル、インドとマカオを通ってここで旅行の日誌を書き、1590年、秀吉の時代に祖国長崎へ到着した。その時、宣教師の追放令が敷かれ、弾圧の雰囲気が漂っていた。彼らは西欧からの土産として貴重な品々を持ち帰った。その中にヨーロッパの楽器、特に日本最初の活版印刷機とその技術があった。その後、四人ともイエズス会に入会したが、ミゲルは退会し、残り三名は神父となり、ジュリアンは1633年、「私はローマを見てきた仲浦ジュリアン神父である」と言いながら殉教した。
 このオペレッタは1942年チマッティ神父から作曲された。脚本は、今話題であるキアラ神父の墓石の発見者タシナリ神父による。描かれているのは、4人の少年が長崎に近づく帰り道の場面。船上で祖国を見る喜びと望郷、またスペインやイタリア覚えた当時のいくつかの歌を紹介する。このオペレッタは1962年、伊東マンシオの祝いに際して宮崎の日向学院で日本語に訳された。
 同じ1942年10月25日チマッティ神父は木下杢太郎作詞「天正の御世にローマに遣わされたる使者を偲ぶ歌」(752番)という同じテーマの歌も作曲した。

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.6 オペラ「支倉六右衛門」−全二幕−  3500円+税

支倉六右衛門(慶長使節1613年-1620年)
 1609年、スペイン船サン・フランシスコ号が上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸に座礁し住民が助けきっかけに、徳川家康はスペインとの交流を考えた。そのため伊達政宗は慶長遣欧使節を編成し、支倉六右衛門(1571年米沢市立石生まれ、桓武天皇の子孫といわれる)を正使、スペイン人フランシスコ会員ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、180人を同行させて通商交渉のためメキシコとスペイン経由でローマへ派遣した。
 一行は1613年10月28日、月ノ浦(現石巻市)を出帆、アカプルコ(メキシコ)に上陸、陸路でベラクルスに移動、大西洋を渡りスペインに到着。1615年1月30日、国王フェリペ3世に謁見し、そこで支倉六右衛門は洗礼を受けた。次に船でイタリアに至り、1615年11月3日ローマで教皇パウロ5世に謁見、ローマの市民権を与えられた。(同年ローマでガリレオ裁判開始)。
 帰り道マドリードでフェリペ3世との通商交渉を続けたが、日本でキリスト教禁教令が出され弾圧が始まっていることで成功しなかった。メキシコに渡り、フィリピン経由で、1620年9月20日、迫害の真最中帰国した。2年後、支倉六右衛門は死去したが、明確な状況は伝えられていない。彼が持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に国宝指定。1640年、支倉家の嫡男常頼、家臣がキリシタンであったため、処刑されたことから見て、六右衛門は家族の中に信仰を伝えたと思われる。

 1942年チマッティ神父が作曲したこのオペラの主題は、一行がスペインからイタリアに向かう途中、嵐と海賊に襲われ、スペインの船長と支倉六右衛門の態度の違いを描いている。一方は武力に訴えようとする、他方は武士道と人道に基づくべきだと主張する。六右衛門の立派な態度を讃える。

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.5 オペレッタ「カルマ」−全二幕−  3500円+税

日本語のみ 1956年調布で作曲
脚本:鈴木 恒夫
作曲:V・チマッティ


 惨酷な人身御供を好むヴィシュヌ神、それに劣らず無慈悲なカルマ大僧正が主権を 握ってからこのかた数年間、血と涙、そして恐怖がこの国を支配していた。ヴィシュ ヌ神は犠牲の血の香りをかぎ、カルマ大僧正の手は鮮血に色どられ、「金のゆり」の血 は地上に溢れた。
 しかし、それも永くは続かなかった。亡命の地でキリスト信者となったシャバダサ 王が光栄と共に故国に戻って来たからである。恐るべき戦いが起った。そして民と国 土は、再びシャバダサ王の手に帰り、民はキリストにおける平和のうちに日々を送る ことになった。
 一方、カルマは最後の「金のゆり」の犠牲を果さずして苦業者アルジューマの予言 の通り、流浪の旅路につかねばならぬ破滅に陥った。ことごとに彼は世に逆らった。 そして世は彼に逆らった。最後迄・・・
 しかし、何が彼を苦しめたか?
思い出すだにいまいましい過去の罪の数々が昼となく夜となく彼の脳裡をかすめて、 彼を失望の深淵に投げ込まんとした。
 けれども、彼の心の片隅に残る埋れ火、母をしたう心、我が子を愛する母をしたう 心は、すべての困難、恥かしさに打ち勝って、故郷へ彼の足を向けさせた。
 カルマは遂に故郷へ足をふみ入れた。しかし、そこに待っていたものは・・・・・

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.4 オペラ「細川ガラシア」−全三幕−  5000円+税

【オペラ『細川ガラシア』の歴史】

-1940年の『細川ガラシア』
 オペラ『細川ガラシア』は、2幕5場12曲の形で、1940年1月24日と25日に東京「日比谷公会堂」で上演され、同年5月18、19、20日に大阪の「朝日会館」で上演された。脚本は、冠九三氏と高木次郎氏がヘルマン・ホイヴェルス氏の5幕の歌舞伎演劇を2幕に縮小し、チマッティ神父はそれを作曲したもの。オーケストレーションと指揮は山本直忠氏(山本直純の父)がそれを担当し、歌舞伎座の市川猿之助の全面的協力により片岡右衛門が出演し、洋楽側からは今泉威子、藤間清枝、坂東彌三郎、市川光男などは出演した。大阪の上演の指揮者は朝比奈隆だった。1940年1月31日、師がイタリアに出した手紙には「この作曲は、日本でまだ生まれていないヨーロッパ風のオペラのための下準備といえる。」と書いた。(ホイヴェルス氏の著書『戯曲選集』は1973年中央出版社から出された。)

-1960年以降の『細川ガラシア』
 戦後1954年から1955年まで、チマッティ神父が調布サレジオ神学院の学長だった時、国民歌劇協会の神宮寺雄三郎氏がその元に通い、その指導の元で師が作り直したオペラの原本を写譜し、現在の3幕のオペラが生まれた。これは、イタリアと日本音楽を融合した外国人による日本語の最初のオペラである。本人の手紙には、「3年間、時間にとらわれず自由に楽しみながら書くことができた作品です。」と書かれている。その原本と写譜はチマッティ資料館に保存されている。 1960年5月27、28日、作曲家塚谷晃弘氏のオーケストレーションにより東京の「文京公会堂」で上演されたが、自分の音楽があまり変えられたので、本人は満足しなかったようである。 1965年1月23日、同じ形で「読売ホール」で上演されたが、本人は参加できなかった。同年10月6日チマッティ神父は帰天した。 1966年5月5日と6日、虎ノ門ホールで上演された。 1967年10月6日、東京文京公会堂でも同じように上演された。
 1989年は、作曲家出田敬三氏のオーケストレーションで1月21日は熊本市で、27日には東京で、上演されたが、脚本を含めて歌も大部分が編曲され、到底チマッティ氏の作曲といえないものだった。

-2004年オペラ『細川ガラシア』の上演
2004年、師の生誕125周年にあたり、オリジナルに忠実なオーケストレーションが必要であると判断され、小栗克裕氏に作曲が依頼された。氏による周到な自筆スケッチ、ピアノスコアなどの研究をへて、なるべく原曲の響きを損なうことのないオーケストレーションが行われ、日本語のイントネーションが不自然にならないように補作され、オーケストラ版オペラ『細川ガラシア』が誕生した。2004年10月8日と9日、東京オペラシティコンサートホールで上演された。

-2016年オペラ『細川ガラシア』のオリジナル楽譜の出版
 2015年10月8日、師の帰天50周年にあたって調布市グリーンホールで行われたコンサート第二部においてオペラ『細川ガラシア』そのハイライトが上演された。その際、2016年10月15日、オリジナルの形で全曲を上演する新しい企画が決まり、将来のことも考えてオリジナルの完全な楽譜を出版することに踏み切った。この楽譜は、保存されている原本と元の写譜に照らし合わせて、確認された。今後の上演の基礎版となるよおうに、チマッティ神父の音楽の愛好者に捧げる。 

【オペラ『細川ガラシア』のあらすじ】

-細川ガラシアの生涯
1563年、織田信長配下の武将明智光秀の三女玉子として生れ、16歳の時細川忠興に嫁いだ。1582年父光秀の本能寺での信長への謀反により、忠興は玉子と19歳の時離縁し、2人の幼児とともに丹後の山里、味土野(みどの)へ幽閉される。その2年後には復縁を許され大阪の玉造の屋敷に住むようになるが、ここの南蛮寺でキリスト教に出会う。玉子が25歳、1587年の時、清原マリアより洗礼を受け、洗礼名は神の恵み「ガラシア」。ここに「細川ガラシア」が誕生する。のちに天下分け目の合戦、関が原の戦いの端緒ともなった石田三成による細川邸襲撃の際、三成の人質になることを拒み、こどもを逃がし猛炎の中、最後の祈りを捧げ、家臣に胸を突かせ壮烈な最期を遂げたといわれている。1600年、細川ガラシア37歳の時であった。

-第1幕 味土野の蓮池の場
父、明智光秀の本能寺の変に際し反逆者の娘として、夫忠興から離縁を申し付けられた玉子は、細川領丹後の国、味土野の地で幽閉の身を送ることになった。そこで玉子の見たものは、戦国の世とはいえ、人の命の尊さ、また蓮池にいまを盛りと咲いている蓮の花がやがて沈み込んでいく様など、そのはかなさへの痛切な思いにほかならない。夫と離別し独り住むわびしさに、侍女清原マリアの励ましもあり、強く正しく生きることの大切さもまた教えられる。やがて時が過ぎ、細川忠興からよろこびの使者が復縁をつげ玉造への帰宅が許される。

-第2幕 南蛮寺の門前の場
玉造の細川邸に帰った玉子は、しばし幸福な日を送るが、忠興が九州征伐に出向いた留守の折、清原マリアに連れられ南蛮寺を訪ねることになった。・・・桜咲くお花見の人だかり、妖しげな笛売りやら酔っぱらい、巡礼の親子・・・それらに屋敷からいなくなった玉子と清原を探しまわる家臣正時など、南蛮寺の門前ではにぎやかなドラマが繰り広げられている。セスペデス神父とのやりとりなどを通し、外出もままならない玉子は、これ以降、自らの信仰を深めるようになる。

-第3幕 玉造細川邸の場
やがて玉子は、自宅にて清原マリアにより洗礼を受け、「ガラシア」の洗礼名を与えられる。 豊臣秀吉の死後、家康打倒の中心になる石田三成は、忠興が上杉との一戦のため北陸に向かったその隙を狙い、玉造の細川邸を急襲する。細川ガラシアは敵陣にとらえられるのではなく、南蛮寺への避難をすすめる清原マリアに2人の子を託し、武将の妻として「自らの命は神に捧げてある」と祈りを捧げ、家臣小笠原少斎により清冽な死を迎える。攻め込んだ敵が見たものは、燃えさかる火中に輝く十字架だったのである・・・<散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花は花なれ、人は人なれ>
(2016年調布グリーンホールで上演された時のDVDがある)

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.3 「Ave Maria di grazia piena」Solo  500円+税
   SoloのAve Maria di grazia piena(No.372)

「チマッティ神父」 本人が書かなかった自叙伝(下) 日本人もほとんどAve Mariaという語を知っている。ラテン語、イタリア語、フランス語などでもよく歌われるいくつもの有名「Ave Maria」があり、1900年、パルマ音楽大学院でマエストロのディプロマを取得したばかりの21歳のチマッティ神父もイタリア語のこのAve Mariaを作曲した。天の母を深く愛していたチマッティ神父の心は、この歌の中によく表れる。すなおで、美しいメロディーである。意味を強調しながら心を込めて歌えば、どんな会衆の前でも大成功が保証される。

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.2 「アヴェ マリア」  800円+税
   Ave Maria(No.191) 2部合唱と4部合唱

「チマッティ神父」 本人が書かなかった自叙伝(下) 第一節はラテン語、残りは日本語であるこのAve Mariaは外国でもよく歌われる。日本でこの形になったのはチマッティ神父生存中、1960年ごろ。ラテン語の歌詞はデルコール神父、日本語は神学生だった倉橋輝信神父による。ただし、メロディーは、師の若い時、1901年にさかのぼる。初めて『Allegoria L’IMMACOLATA無原罪の聖母のアレゴリー』というcantata「No.869」の中に現れる。若いチマッティ神父の作曲で、非常にイタリア的、親しみやすい。一度聞くだけで、どなたでもすぐに歌えるものである。

ここには、
  1.1901年の原曲
  2.2部合唱の歌
  3.4部合唱の編曲
を紹介する。

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音楽家チマッティ神父楽譜集Vol.1 「ピアノソナタ」  1,500円+税
   Trittico Origine dell’Impero (No.784)  「国の肇を讃えて」のピアノソナタ

「チマッティ神父」 本人が書かなかった自叙伝(下)カタログ784番の『国の肇を讃えて』というピアノソナタは、1940年、三が日の3日12時5分、正午のニュースの後、宮崎のNHKから生中継で全国に放送された曲である。当時、日独伊同盟の時代であった。その記念写真と当日のNHKのプログラムが残っている。この機会にチマッティ神父は陶器の十センチの記念メダルを渡され、「紀元二千六百年記念‐国際懸賞論文‐財団法人国際文化振興会日本・東京」と書いてある。後に師は何回もコンサートでこの曲を弾いた記録があるが、残念ながらその録音がどこにも見当たらない。1941年別府日伊文化会から印刷された。

   Trittico Origine dell’Impero (No.784)  「国の肇を讃えて」のピアノソナタ

現在「平和の塔」と呼ばれる宮崎市の建造物は、「八紘一宇」とその上に書いてある当時の名のとおり、「世界八方位を一つにまとめる」という意味である。太平洋戦争の時にアジアを日本の指導の下にまとめる目標を著しているが、チマッティ神父は宮崎市から頼まれて、1940年11月11日の落成式にこのノソナタを演奏した。

   Fantasia giapponese (No.783)  日本組曲

来日したチマッティ神父は、大和調の音楽の特徴を早くつかみ、観客を喜ばせるためにコンサートで独自の味を付けながらよく日本民謡を演奏していた。この組曲はその代表的な作品である。年代不明ではあるが、間違いなく戦前のものである。

   Valtzer brillante (No.786)  華やかなワルツ  L.Arditi作曲 チマッティ編曲

全国でコンサートを開いていたチマッティ神父は、自分曲だけでなく、他の多くの名曲も弾いたりしていた。その場合、観客やプログラムに合わせて省略や編曲したりすることもあった。自筆のコピーが残っているこのArditiのワルツも、その明るい気持ちによく合うものとして師が好んでピアノで引いたものである。

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