(報 告)  

  * スライドでも紹介しました 「イエス」の顔をコンプリ神父の著書「聖骸布」の中から抜粋して紹介いたします。 
    (コチラをご覧ください)


日本聖骸布研究会報告 「聖骸布とキリスト教美術のなかのイエスの顔」

4月13日、第3回聖骸布研究会を、大改修を終わって美しくなったサレジオ神学院研修室で開催、コンプリ神父が標記のテーマで講演されました。要旨はつぎのとおりです。 

50年以上前から聖骸布の研究をしているわたしは、47年前、宣教師として日本へ着いてすぐ、神学院のこの部屋で、神学生に対して聖骸布の講演をしました。チマッティ神父も聞いておられたことを思い出しています。今日の研究の課題は、イエス様の顔の由来です。

旧約聖書時代、人の姿を描いたり拝んだりすることは禁じられていたので、イエスの顔は描かれていませんでした。しかし、今日、世界中どこでも、イエスの顔は共通の特徴を持って描かれています。子供でも、イエスの肖像を見てイエスだとわかります。いつから、このようになったのでしょうか? また、聖骸布とはどんな関連があるのか?これが今日の課題です。

ご承知のとおり、現在の聖骸布は、1350年代、フランスのリレーに現れました。それ以前の歴史ははっきりしていませんが、1204年にコンスタンティノポリ「姿が立っているように見えるイエスの墓布が展示されていた」という記録があります。それより遡ると、500年代、エデッサ(現トルコ)に「手書きでないイエスの顔」があったという記録がさらにあります。これをもとにして、当時、イエスの顔が描かれていたのです。残っている当時の幾つかの顔を見ると、イエスの特徴的な顔、すなわち、真正面から見た顔、目が大きく、片目がやや膨らんでいる、髪が長く、片方がやや長い、額に血の跡がある、などがはっきりしています。

さて、エデッサのこの「手書きでないイエスの顔」は、944年にコンスタンティノポリ(現イスタンブール)に移されましたが、その後、この町にイエスの墓布があるというの話が始まります。だが、この墓布はどこから来たかは、どこにも記されていません。もし、聖骸布が8っ折にして顔部分だけを出して保存されていたとしたら、このなぞが解けます。そして、そう思わせる手がかりが多くあります。それによって、定着したイエスの顔の原型である「手書きでないイエスの顔」は、実は聖骸布だったという結論になります。これが今日の話のあらすじです。これを裏付けるためのスライドをお見せいたします。

 [このあと約2時間、主としてコンプリ神父が撮影した貴重なスライド200枚の映写と解説が続いたが、ここでは紹介できないので割愛します。当日参加者の眼福です。]

  * スライドでも紹介しました 「イエス」の顔をコンプリ神父の著書「聖骸布」の中から抜粋して紹介いたします。     (コチラをご覧ください)