聖骸布はダヴィンチ作なのか(フジテレビに対する答え)

2005年3月12日、フジテレビで放送されたいわゆる「ダヴィンチコード」の番組のなかで、もう一度聖骸布の偽造説が出されました。私は、『ダヴィンチコード』という本の問題点をここで取りあつかうつもりはありません(いくらでも問題があります!)。ただ、歴史の立場から、1998年の私の著作『聖骸布』の76〜78ページを引用して、聖骸布に関するこの番組の内容に答えます。民主主義の時代に発言の自由がありますが、もう少し真剣に問題をお考えたうえでご発言なさった方がよいと申し上げます。これは、視聴者の権利です。


火災までの聖骸布の歴史

1464年以降、聖骸布の歴史はサボイ家と共に歩む。原則としてシャンベリー市に保管されたが、所有者が事あって避難するとき、よく一緒に移動した。以降は、参考のため、記録が残っている幾つかの移動を並べてみよう。

1478年3月21日 ピエモンテ地方のピネロロ(Pinerolo)市に展示される。
1488年4月の上旬 サビリアノ(Savigliano)市に展示される。
1494年3月28日 ヴェルチェリ(Vercelli)市の聖エウセビオ教会前の広場に展示される。
1495年4月17日 トリノ市に展示される。

いずれも所有者の移動に伴う展示であり、すべてはそ領内の町である。

1502年6月11日 サボイのフィリベルト2世がシャンベリー市の城内に建てた新しいチャペルに安置され、マルゲリタ夫人 (オーストリア皇帝の娘) が寄贈した銀製の箱に納められる(その箱は、後の火災で破損する)。

以降、毎年市民に公開され、他の町にも公開されることがあった。

1503年 マルゲリタ夫人の兄、オーストリア皇帝マクシミリアンの息子フィリプに見せるために、ポンダン・デ・ラ・ブレス (Pont d'Ain de la Bresse) という町に運ばれた。4月14日、ブルグ・アン・ブレス (Burg en Bresse) に展示され、ルイ・デ・ゴレヴォ (Louis de Gorrevod) 司教が参加した。1532年の火災の後、聖骸布の確認のために教皇から派遣されたのは、この人である。

この展示に参加したアントアン・デ・ラレンAntoine de Lalaing氏が書いたところによると、このとき、聖骸布が本物であるかどうかを確かめるために、「熱した油の中で煮られ、火で試され、何回も洗濯された。それでも、姿を消すことはできなかった」。しかし、本人は実験に立ち会ったとは言っていないので、このことは史実ではないと思われる。もしそのようなことがあったとしたら、布の上にその跡が残ったはずであるし、それだけでも炭素14のテストは無意味になる。サボイ家がこのようなことを許したはずもないと思われる。

同じ1503年、聖骸布がシャンベリーに戻る前、しばらくビリアー Billiatの城に滞在した。その後、1535年までシャンベリーを離れたことはない。(省略)

1516年6月15日 フランス国王フランソワ1世は、聖骸布を崇敬するためにリオンからシャンベリーまで歩いたという記録がある。当時、それに対する信心が各地と各階層に広まり、キリスト教の最高の宝物だという評価を受けていたのである。


レオナルド・ダ・ヴィンチ作という妙な話

以上のとおり、この時期の歴史は十分に知られている。それなのに、1955年に邦訳された英国人リン・ピクネット (Linn Picknett)、クライブ・プリンス (Clive Prince) 共著『トリノの聖骸布の謎』 (白水社) という本の中には、聖骸布がレオナルド・ダ・ヴィンチ作だという滑稽な主張が読まれる。著者は、そのことを可能にするために、聖骸布が40年間も行方不明になった、と主張するが、上で見たとおり、この発言は完全に史実に反する。当時の歴史に詳しく、その専門家であるペレー (A.Perret) 氏とフォッサティ (L.Fossati) 氏が示したとおり、聖骸布はサボイ家の手から離れたこともなければ、行方不明になったこともない。「40年間の空白」は、全く存在せず、この本には次の矛盾に満ちた記述も読まれる。

「サヴォイア(サボイ)家が聖骸布を手放していないことは確認されているが、まる40年間、聖骸布は音沙汰なしの状態を続けている。保管場所さえはっきりしないのだが、それでもサヴォイア家が聖骸布を大いに心にかけていたことはまちがいない。1471年から1502年にかけて、サヴォイア家は領内第一のシャンベリー教会を、聖骸布を安置するためにわざわざ拡張しているのだ。それともこの改築は新しい前よりも上等な聖骸布を迎えるためのものだったのだろうか。この「沈黙」の時期は、以前のものより立派な聖骸布を世に送り出すための準備期間だったのだろうか。」 (49頁) 。

つまり、「手放していないことは確認されている」「大いに心にかけていたことはまちがいない」と認めながら、著者は、「保管場所さえはっきりしない....40年間、聖骸布は音沙汰なしの状態を続けている」など。それは、「前よりも上等な聖骸布を迎えるための準備期間だった」とも言う。これは、今の聖骸布はレオナルド・ダ・ヴィンチ作 (1452〜1519年) だ。以前リレにあった聖骸布と違う、と言うためである。著者は、リレでの展示を示すメダルを知ってはいるが、「残念ながら小さすぎて細部は識別できない」 (46頁) と言う (実際、直径6センチだから、識別するために虫眼鏡はいらない。でも、彼らにとって見ないほうが都合がよいのであろう!)。

なお、著者たちは、絵の具で描かれたと主張した当時の司教の「覚書」を大いに信用しながら、現在の聖骸布が描かれていないことも認める。「聖骸布像の驚くべき迫真性と解剖学的正確さは、どう考えても中世の贋作というイメージにはそぐわない」(101頁) と言う。そういうわけで、「聖骸布を偽造した人物は知識において大きく時代に先行し、彼が用いた手法は、二十世紀科学界の精鋭がいまだに解明できないほど巧妙なものであった。どう考えても並の画家、並の人物ではあり得ない。」(102頁) と考えるようになったと言う。そして、彼らはその人物を発見した、と言う。それほどの偽造ができたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだけだ。だから、彼がやったはずだ、と言う。巧妙な写真技術を使って....。人を殺害して、死体を縄で肩からつるして、暗室の原理=Camera obscuraを適用して、感光剤を塗った布に写るようにした。しかし、顔だけは、レオナルド自身の顔である、と。なお、この説を可能にするには「沈黙の40年間」が必要だったのである。

この所説を論破するには、レオナルド生存の1452年と1519年の間に「空白の40年間」がなかったことを知るだけで十分である。この空白は、オカルト好みの彼ら著者の自作自演にすぎないのである。

こんな滑稽な話を読んで、信じる人もいるようだが、聖骸布のことを少しでも知っている人なら、その矛盾にすぐ気づくであろう。もし、彼らの言うやり方で聖骸布が作れるのなら、なぜ自分たちで作ってみないのであろうか。全く同じ特徴を持っている聖骸布を! 言葉だけで主張するよりも説得力がある。また、世界中で名を売ることにもなるであろう。言論の自由が保証されている現代、何を書いてもよい。しかし、空想を学問として売り込むことは許されない。彼らが言う「聖骸布の謎」は、今もそのまま残っているのである。


おわりに

この本が出た次の年、1995年に、英国のBBCがアメリカのテレビ会社と組んで50分番組でこの本を宣伝してきた。その中に二人の著者が学者のように主役として振るまい、分からない視聴者に対して聖骸布が偽造であることを強く印象づけた。なお、1997年7月、NHKも衛星テレビを通して日本語で同じ番組を放送してきた。これも、言論の自由が保証されている証拠であるが、はたして、いつか反対の立場の番組も放送するのであろうか。