日本で、最初に聖骸布を伝えた人は誰?

私は以前からこの問題について考えていました。また「聖骸布」という名を、誰が、いつごろ作ったかということも知りたいと思っていました。

日本では、聖骸布について最初の本が出たのは、1936年、カトリック中央書院(現在のサンパウロ)から出版された64ページの石井健次著『キリストの聖骸布』でした。この本には、1931年の一般公開でエンリエ氏が撮影した公式写真のポジとネガのすばらしい写しが付いていて、当時までの情報もよくまとめられています。本の参考文献には日本語の本が一つも記載されていないことから考えると、これは最初の本であったと言えます。また、「聖骸布」という日本語名も、この時に作られたものであると思われます。

次は、同じ中央出版社から出た1949年のマッケヴォイ著、小田部胤明訳『キリストの遺影』でした。これにも「聖骸布」という言葉が頻繁に使われていることから、戦後、定着していたことが分かります。

では、以前、聖骸布を紹介した人はいなかったのでしょうか?

はい、チマッティ神父が紹介しました。今年の4月、わたしがトリノで聖骸布の一般公開に参加した際、ヴァルサリチェ学院で100通ほどの新しい手紙を見つけました。その大部分は、チマッティ神父がミサの同級生Tonelli 神父に充てたものです。このTonelli神父は、聖骸布の研究家であり、1931年に聖骸布について本を発表しました。なお、同じ学院に、1930年に聖骸布の本を出したフランス人Noguier神父もいました。

これらの新しい手紙をとおして、聖骸布を知らせるために日本でチマッティ神父が果たした役割について明らかになりました。師は、日本に来て2年後、1928年4月4日、Tonelli 神父にこう書きました。

「聖骸布について、できればみ顔のもっと大きな写真、また小さなご絵も何枚かほしい。Noguier神父が送ってくれたものは、人々に見せて少し説明したら、皆我先にほしくなって消えました。」

また、6月28日、再度次のように頼んでいました。

「今、機関紙もあるので(同年5月24日始まった『ドン・ボスコ』、現在の『カトリック生活』)、それをとおして聖骸布を紹介したら、人の救いのためになると思います。」

機関紙1931-07-08
なお、7月28日の手紙で、届いたご絵のことを感謝しました。これらのことは、1931年の一般公開以前のことですので、これらのご絵は、1898年にセコンド・ピア氏が写した最初の写真に基づきまず
(写真1 説明と祈りはフランス語)
(写真2 Noguier神父の資料の中にあった白黒の絵画)
機関紙1931/07/08付
   
写真1 写真2
写真1 写真2

しかしながら、さらに大事なことがあります。1931年5月3日〜24日トリノで聖骸布の一般公開があったすぐ後、チマッティは7月号の『ドン・ボスコ』に聖骸布について一ページを書きました。その中に「聖骸布」ではなく「屍衣」という語を使い、振り仮名では「シンドネ」(聖書やイタリア語での名)と書きます(別紙参照)。おそらく、この記事は日本で書かれた聖骸布についての最初の紹介です。

さらにチマッティ神父の熱意を示す証拠があります。1933年、トリノでもう一度一般公開がありました。その際、教え子Grigoletto氏は聖骸布について歌詞を書き、恩師チマッティ神父にその作曲を願いました。チマッティはこう書きました。「あなたの歌詞が美しい、わたしの音楽もさらに美しい、主をたたえるために歌う人たちもすばらしいことでしょう」。残念ながらこの曲は見つかりません。

写真3
写真3

最後に、別な形でも聖骸布を宣伝しました。イタリアのBruner氏は、エンリエ氏が1931年に写した公式写真に基づいて、1934年にイエスの顔を描きました。今もよく知られているものですが、聖骸布そのものではなく、それによく似ているものです。チマッティ神父は、直接Bruner氏にそれを注文し、自分で配るほか、戦前、戦後もドン・ボスコ社やサンパウロの書店でそれが売れるようにしていました。(写真3)

以上のことで分かるように、来日以前、30年間もトリノで活躍、勉強したチマッティ神父は、聖骸布の問題に詳しいTonelli やNoguier両神父の研究に接する機会に恵まれていました。1898年の一般公開に際にも、話題になった最初の写真のこともよく知っていたはずです。

したがって、日本で聖骸布を普及するための役割を果たしたことは、当然の結果だったと言えます。


サレジオ神学院 〒182-0033 調布市富士見町3-21-12
聖骸布のホームページ www.sindon-jp.com
チマッティ資料館のホームページ  www.v-cimatti.com