フランスとコンスタンティノポリでの歴史

7-1 フランスに現れた聖骸布


 このように聖書が語る亜麻布だと言われるものは、1353年頃、パリ近くのリレーLireyという小さな町のシャルニー家の領主Geoffroy de Charnyが建てた聖堂で初めて展示された。多くの巡礼者が訪れていたが、およそ40年後Pierre d‘Arcisという司教が信憑性の証明書を頼んだが、出されなかったので展示を禁じた。彼が言うには、布に姿が描かれていた、と。当時の争いの数々の書類が残っているが、その展示の記念メダルもある。それは、1855年、パリのセーヌ川から偶然に引き上げられたもので上と下の部分が破損していて、7センチのメダルに今の聖骸布の正面と背面の姿の人の姿があり、布の杉綾織も、そして所有者の家紋と妻の家紋も刻まれている。間違いなく今のトリノの聖骸布である。やはり、描かれたはずのものではない。問題は、どこからその町に来たかということである。

7-2 コンスタンティノポリにあった聖骸布


 以前、ビザンチン帝国のコンスタンティノポリは聖遺物の宝庫であったが、その町は1204年、第4十字軍に略奪にあった。キリスト教の歴史の大きな汚点である。それに参加したRobert de Claryという人は、こう書いている。「この町にブラケルネの聖母マリア修道院があり、そこには我らの主が包まれた亜麻布(Sydoine)が毎金曜日に真っ直ぐに立てられ、我らの主の姿がよく見える。ところが町が陥落された後、布の行方についてギリシア人もフランス人もだれも知らない」と。「Sydoine」というのは聖書が言う「Sindon」、「立っている」というのはは顔ではなく、全身であろう。したがって、展示されていたのは、今の聖骸布だったと思われる。実際、1205年、町の陥落後の皇帝Teodorus Angelus Comnenus は、ローマ教皇インノチェンチオ3世に手紙を書き、Ottho de la Rocheという人は「我が主イエス・キリストが死んで、復活される前に包まれた亜麻布をアテネへ持ち帰った」と訴えた。Ottho de la Rocheは、町の陥落の時、亜麻布が展示されていたブラケルネ教会に最初に入った一人。その功績のため次の年にアテネの公爵にされた。昔からフランスに持ち帰ったのはこの人だろうと言われていた。その記録はないが、フランスのリレーに聖骸布を展示したGeoffroy de Charnyの二番目の妻の系図にOttho de la Rocheの名が入ってる。彼女が遺産として持ってきたと思われる。

7-3 「Preyプレイ写本」に描かれている聖骸布


 もう一つの証拠がある。1968年ハンガリーのブダペスト図書館所蔵の「Preyプレイ写本」が紹介された。これは1193年~1195年にコンスタンティノポリで描かれ、ハンガリーの王に嫁いだ姫が持ってきたものである。その27ページに二つの場面が描かれている。上は布には、ニコデモが横たわるイエスの遺体に香油を注いでいる場面、下は墓に着いた婦人たちに天使が亜麻布を示す場面。普通はイエスの腰に布が巻かれているが、ここは裸である。前例のないことである。また右手は上に左手は下、陰部の上に組まれ、4本の指しかない。額にも傷跡がある。まさに聖骸布と同じである。
 下の場面には天使が二つの布を指す。小さい布は聖書が言うスダリオであろう。大きい布は二重折りで、外側は聖骸布を思わせる杉綾織りの模様がある。内側はイエスの遺体の代わりに多くの十字架が描かれている。よく見ればいくつかの小さな穴がある。聖骸布の時代不明のL型の焼け跡と同じ。つまり、これを描いた人は聖骸布を見たはずである。この写本は略奪以前のもの。Robert de Claryの証言と合わせれば、当時コンスタンティノポリに聖骸布があったことを否定できないことになる。

7-4 聖骸布に由来する「Compianto泣き悲しみ」の構図


 第4十字軍後、「Compianto泣き悲しみ」の図柄の伝統が始まる。それはプレイ写本に似ている。バルカン半島のNereziとKurbinovo、また北イタリアのAquileiaの壁画もそうである。正教のTrenoiという刺繍も、また14世紀の初めからイタリア、フランス、ドイツなどの無数の葬りの似た彫刻も現れた。1320年頃ヴェローナ近くのCaprinoでRigino di Enricoが彫刻した印象的なCompiantoもそうである、聖骸布がフランスに現れる前からその影響があったことが分かる。