聖骸布不明の歴史


 聖骸布の歴史は、キリストの時代から1000年頃まで不明であるが、博物館に保存されている大部分の古代の遺品についても同じことが言える。イエスの墓の亜麻布が保存されたにしても、ユダヤ教は血の付いた布が法的に不潔と見なしていたので隠していたはずである。聖書にも書けなかったであろう。その後、250年にわたって続いた迫害中、公にすることもしなかったわけである。
 313年、コスタンティヌス皇帝はキリスト教に自由を与えたが、教会で十字架上のキリストを描くことは禁じられていた。栄光のしるしとして十字架を飾っていただけである。十字架上のキリストを描き始めたのは500年頃であるが、生きたまま、服を着たままであった。死んだキリストや傷ついたキリストが描かれるのは十字軍の頃である。そこまで、血だらけの聖骸布もそのまま一般に見せることはなかった。それでも、その存在を示す手がかりはあったのである。

9-1 キリストの顔のモデル


 ユダヤ教では、人の姿を描くことは禁じられていた。ではなぜ、私たちはイエスの顔を知っているのであろうか。いつ頃からその顔が描かれるようになったのであろうか。
 既に20世紀の初めに、聖骸布の最初の写真が写された後その研究を始めたフランスのPaul Vignon氏は、聖骸布がコンスタンティノポリに着くまでにも、その存在の証拠を「イエスの顔」に求めてきた。実際、聖骸布の顔を見る人は「イエスに似ている」と言う。なぜであろうか。Vignon氏が言うには、特に古いイコンと聖骸布と共通の特徴がある。聖骸布がモデルとなったはずである、と。

9-2 「手書きでない」キリストの顔


 ローマのカタコンベに描かれているキリストの顔は架空の顔である。今のイエスの顔が現れるのは6世紀頃であって、その原型となったのは6世紀前半の「Akeiropoietos手描きでない」キリストの顔と呼ばれていた布である。その起源は謎に包まれているが、その存在は確実である。当時、シリアのキリスト教の中心であったエデッサ(現在トルコのSanli-Urfa)にあった、皇帝ユスティニアヌス1世が建設したエデッサの聖ソフィア大聖堂に保管され、7世紀に聖画像破壊運動が起こった時、イコンの正当性を認めた787年の第2ニカヤ公会議の席上、その「手描きでない」キリストの顔の話が持ち出され、聖画像の正当性を認める一理由となった。その布は944年にコスタンティノポリスに移された。それが、聖骸布と関係があったのであろうか。

9-3 キリストの顔の特徴


 手ぬぐいのような形であったその布は、真ん中にイエスの顔だけがあった。古い写しがいくつか残されている。594年頃書かれたエヴァグリオス司教の『教会史』によると、522年、エデッサの川が氾濫し、町に甚大な損害を与えた。城壁を修復する時、その中に「手描きでない」キリストの顔の布が見つかった。それが東西各地で尊敬され、イコンのキリストの顔のモデルとなった。顔は細長く、髪の毛が顔の両側に延びていて、目は大きく開かれている。口ひげがあり、あごひげはしばしば二つに分かれ、少々右に曲がっている。額のまん中にはよく傷があり、それが垂れている髪の毛の形となる時がある。全体として妙な顔であるが、荘厳で威厳がある。その顔は早くイコン、モザイク、フレスコ画に普及し、「パントクラートルPantokrator、すべてを支配する方」と呼ばれるキリストの顔にもその特徴が現れる。残念ながら、聖画像破壊運動によって大部分の古いイコンが破壊されたが、残ったのはシナイ山、イタリアなど、運動が届かなかった所である。その後キリスト教の全教会にその姿が広がった。顔だけが描かれるキリストの姿は今でも「Akeiropoietos」と呼ばれる。900年頃「マンディリオン」と呼ばれた。

9-4 マンディリオンはコンスタンティノポリへ


 コンスタンティノポリの皇帝はどうしても「マンディリオン」が欲しかった。何回頼んでも断られたので、943年に軍を送ってエデッサを包囲した。一年後勝ち目がないと分かったイスラム教徒の指導者たちは200人の捕虜と大金の引換えで布を渡した。944年8月15日「マンディリオン」はコンスタンティノポリに着き、16日荘厳に聖ソフィア大聖堂の皇帝の座に飾られた。現在も東方教会の典礼で8月16日にその移転を祝う。
 一年後、皇帝コンスタンティヌス7世が書かせた『エデッサのイコンについて』という記録が聖ソフィア大聖堂で読まれた。その中に様々な伝説と共に大事な情報が記されている。たとえば、その布を受け取ったイエスの時代のアブガル王の伝説の中に、受け取った王の印象をこういう風に述べられている。「顔立ちは画家の技によらず、色彩もなく、分泌された液体によってできたように見える。注意深くその姿を観察したところ、物的な色によってできたものではないことを確認した」。また次の説明もある。「布にイエスの顔が写ったのはゲッセマネの園で血の汗を流した際に弟子たちが手拭いを差し出し、その血と汗が布にしみ込んだのである」と。
 今、近くから聖骸布を見る人はこれと同じ印象を受ける。顔の輪郭はほとんどつかめない影のようである。室内の薄暗い場所だったらなおさらである。
 では、聖骸布と「マンディリオン」は何か関係があるのであろうか。

9-5 マンディリオンは骸布だったか


 この問題の解明に一生をかけたイギリスの歴史学者Ian Wilsonは1985年に文藝春秋社から日本語訳の『最後の奇跡-トリノの聖骸布』を出し、さらに2010年はBantam Pressから最新著『The Shroud– the 2000 year mystery solved - 聖骸布の2000年のミステリーを解く』を出した。その中に、マンディリオンと聖骸布が同一であると主張している。今、この仮説の支持者が増えている。これによって聖骸布がコンスタンティノポリに来るまでの歴史の空白が埋められる。その手がかりは『アダイの教え』の中に「Sindon」が「Tetradiplon=4×2=八つ折り」と呼ばれていて、聖骸布が8枚に畳んだ状態で保存されていたことを意味すると言う。実際、聖骸布を8枚にしたら、布は長四角形になり、身体は下に隠れ、顔だけが真ん中に見えるようになる。東方教会にはイコンを額縁に入れてその上に金銀の「オクラド」を被せる習慣がある。8枚に畳んだエデッサの布もそうだったであろう。というのは、1000年頃まで十字架上で死んだイエスも、血だらけの痛ましい墓の亜麻布の姿も表してはいけなかったからである。もし聖骸布がその状態でコンスタンティノポリに着いたなら、額縁から出した時、初めて墓の亜麻布であることが分かってしまったことであろう。 

9-6 8枚折りの証拠


 コンスタンティノポリの皇帝はどうしても「マンディリオン」が欲しかった。何回頼んでも断られたので、943年に軍を送ってエデッサを包囲した。一年後勝ち目がないと分かったイスラム教徒の指導者たちは200人の捕虜と大金の引換えで布を渡した。944年8月15日「マンディリオン」はコンスタンティノポリに着き、16日荘厳に聖ソフィア大聖堂の皇帝の座に飾られた。現在も東方教会の典礼で8月16日にその移転を祝う。
 一年後、皇帝コンスタンティヌス7世が書かせた『エデッサのイコンについて』という記録が聖ソフィア大聖堂で読まれた。その中に様々な伝説と共に大事な情報が記されている。たとえば、その布を受け取ったイエスの時代のアブガル王の伝説の中に、受け取った王の印象をこういう風に述べられている。「顔立ちは画家の技によらず、色彩もなく、分泌された液体によってできたように見える。注意深くその姿を観察したところ、物的な色によってできたものではないことを確認した」。また次の説明もある。「布にイエスの顔が写ったのはゲッセマネの園で血の汗を流した際に弟子たちが手拭いを差し出し、その血と汗が布にしみ込んだのである」と。
 今、近くから聖骸布を見る人はこれと同じ印象を受ける。顔の輪郭はほとんどつかめない影のようである。室内の薄暗い場所だったらなおさらである。
 では、聖骸布と「マンディリオン」は何か関係があるのであろうか。

9-7 コンスタンティノポリでの「墓の亜麻布」


 では、いつ頃からコンスタンティノポリに「墓の亜麻布」があるようになったのであろうか。
 それは1100年頃である。
 


 ところが、布の上にイエスの姿が見えたという記録、またその由来の記録もない。
 ところが、墓の布の上にイエスが横たわる絵が描かれるようになったのはこの頃である。1192年頃の「Prey写本」がある。すぐ後、Robert de Claryは「キリストが立っているように見える」と証言した、そして、その図柄は広く伝われる。
 私たちは、より明確な情報が欲しいであろうが、忘れてはならないのは1204年にコンスタンティノポリの図書館が放火され、古代の資料が失われてしまったことである。今の聖骸布があって、イエスを除けば、その布の存在が説明できないこと。歴史の不足分に関しては、将来の研究に期待するしかないのである。