サレジオ修道会総会
サレジオ修道会では1938年に総会が行われ、サレジオ会の各管区の責任者がトリノ総本部に集まりました。
日本のサレジオ会の責任者であったチマッティ神父もそれに与るために、日本に来てからの2回目のイタリアへの旅に赴きました。
この時、人材不足と経済的な理由で、旅行をすることはチマッティ神父にとってとても都合の悪いことでした。
彼は60歳で、宮崎牧地の教区長、日本サレジオ会の責任者、宮崎小神学校の院長、46人の小神学生に音楽、哲学と科学を教えていて、
代わりに務める人を見つけることが出来ないでいたのです。
チマッティ神父イタリアへ
総会への参加を少し延期し、旅行費を借りて、イタリアへ出発しました。これに当たってサレジオ会員に次の目標を残しました。
「置かれている所で務めを実行し、修道会の会憲を守り、キリストの愛を目指して生きるようにしましょう」と。
小神学校の日記がチマッティ神父の出発について、若者の気持ちを伝えています。
「今日、1938年5月11日、私達にとって神様の次に一番大事なお方、私達の霊魂の父、良き指導者であるチマッティ院長がイタリアへ旅立った。
早く日本に戻れるよう皆の祈りがささげられた」
チマッティ神父はホンコンから46人の各小神学生宛に勧めのある御絵を送り、これが皆にとって大きな喜びとなりました。
イタリアでのチマッティ神父
イタリアのトリノでのサレジオ会総会のテーマは「福音宣教と宣教地での活動」でした。この総会の間中、チマッティ神父の声は度々聞こえましたが、
元気がありませんでした。病気であることを見せませんでしたが、実は赤痢にずっと悩まされていたのです。
総会が終わってからイタリアのあらゆるところで、50回ほど講話を求められ、それに応じていきましたがその病気は良くなることはありませんでした。
チマッティ神父はイタリアの新聞に載るほど有名になっていました。ここでイタリアの新聞がチマッティ神父について書いた記事の内容を引用します。
故郷のファエンツァの新聞
「チマッティ宣教師の2時間の講話は期待以上に面白かった。来客は喜びを感じ、日本に対する関心を呼び起こされた。話は長い喝采で終わった。」
ボローニャの新聞
「チマッティ・・・この名はサレジオ会だけでなく、全イタリアの誇りである。人々の救いに自分を全面的にささげたこの宣教師はドン・ボスコの精神と慈愛に満ちている。
身なりはとても質素で、顔は長髭に包まれて良く見えないが、その広い心、宣教の熱情は皆の中に響くほどに表れている。」
ベネツィアの新聞
「チマッティ宣教師は4カ月前からイタリアを回り、福音宣教と、それに関わる話をしている。話の情熱、歌声の綺麗さ、ピアノの見事な演奏を通して人々を魅了している。
皆は喜びと慰めを感じ、善への招きを聞かされている。」
チマッティ神父はイタリアの色々な教会やホールで日本のことを紹介しましたが、健康の具合が良くならないのを体験して、心の中で、「自分の死が近い」、
「日本に戻って迷惑になるのではないか」と思ったほどでした。しかし、トリノの長上から「日本には、今、替わる者がいない」と言われて、
1938年の終わりにまた船に乗って、「後継者を待ちながら」と言って日本に戻り、以前から行っていた活動に着きました。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 4年 12月 6日
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