第二次世界戦争の最後の2年、1944,45年とチマッティ神父   




ジャガイモを収穫する神学生

ジャガイモを収穫する神学生

初期の野尻湖サレジオの疎開場所

初期の野尻湖サレジオの疎開場所



   1944年  


 1944年にチマッティ神父は神学生を継続的に教えるために、東京育英サレジオ神院学に一緒に住むようになりました。
 「私は若い時の学校の先生に戻り、前よりもその務めは難しかったが、学生に役立ったかな」、とは彼の思い出のことばです。
 戦争中であり、食べ物と生活に必要なものが不足していたため、神学生は週に二日間を手仕事にあてていました。 1944年の始めには勉強は規定通りに行われていましたが、11月辺りからアメリカは東京を空襲の的とし、 授業を断念しなければならなかったのです。神学院の日記に次の文章が残っています。
 「11月に入ってほとんど毎晩、毎日、何回か空襲が繰り返されています。空襲警報がなる度ごとに防空壕に逃げています。 チマッティ神父は毎度、外で皆がそろうのを待ち、一番最後にロザリオを手にしながら、防空壕に入ります。 神学院は狙われていないようですが、飛行機の音が凄いもので、爆弾はとても近い所に落ちています。 皆は恐れの中に生活し、毎日何回もこの「十字架の道行き」が繰り返されます」。
 1944年12月8日、無原罪の祭日の夜中2時に警報がなり、東京空襲が何時間も続き、 チマッティ神父は集まった共同体を前にして、マリア様に一つの約束をしました。 「サレジオ会員が無事に生き残るなら扶助者聖母に一つの教会を立てる」。
 チマッティ神父は空襲などにも関わらず、外部に平静さを見せ、会員にこのようなことばを繰り返していました。 「恐れるな、神の御摂理に自分を委ねましょう。聖母マリアの保護を受けるために神の御旨を受け入れ、罪を避けましょう」。



   1945年    


 1945年に入って、空襲のために、東京の建物は日増しに破壊され、死人が増え、家のない人が数えられないほどになりました。 神学院に住んでいた者は、爆弾強風の中で、外国人であるため、傍から敵意の目で見られ、さらに親戚との連絡が取れなくて 落胆する者もいましたので、チマッティ神父は1945年4月に東京から5、6時間離れている野尻湖に神学生を移動させました。 そこでせめて爆弾の音がしないようにと。
 しかし、どうやってチマッティ神父はその場所を買う金を手に入れたのでしょうか。 チマッティ神父の秘密が書かれている本にこの言葉があります。
 「1944年12月7日、30歳ぐらいの男が話をしに訪れて来ました。 長い話の末に、自分の名前を知らせずに大きな寄付を残して神学院を後にしました」。
 神学生が野尻湖に移った後に、彼らにチマッティ神父の次の手紙が届きました。
 「不自由が多くあることは承知しています。しかし御摂理と聖母マリアに今までの物質的・精神的助けのために感謝しましょう」。
 戦争は1945年8月15日に、天皇陛下のラジオ放送での話で終わりました。 チマッティ神父は、東京のサレジオ会員の黙想会を結ぼうとしていました。乾杯の時の話にこのことばを口にしました。
 「神に感謝!これから仕事をしましょう。神の栄光、人の救い、日本の再構築のために働きましょう」。 



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 3月 6日


  チマッティ神父の生涯目次ページへ