サレジオ会宣教師チマッティ神父   



別府にて父の会

別府での父の会にて

守衛にて病人への堅信式

守衛にて病人への堅信式



   「サレジオ会宣教師」   


 チマッティ神父は、普段、自分を紹介する時「サレジオ会の神父」と言い、しかし、特別の時、例えばコンサートや演芸会のときに自分を「サレジオ会宣教師」と言っていました。
 チマッティ神父は音楽、自然科学、教育学の博士・先生であったが、宣教学また宣教活動の研究をしたことはありません。 ただ若き時、宣教地から戻って来ていた宣教師たちの話を聞いて、宣教地へ行く強い望みを抱くようになったのです。
 音楽と教育学の資格を持ち、自然科学の博士号を受け取った時に、一人の同級生から冗談に「次の博士号は何だろうか」と。
 チマッティ神父の答えはこれでした、
 「宣教地へ行けたら、博士号等はどうでもよい。私の望みは神の栄光と人の霊魂の救いのために働くことです」。



   イエス・キリストの愛を持って行きなさい    


 様々な状況に表れる神の計らいで、チマッティ神父は46歳になって、1925年11月11日にトリノの扶助者聖母の教会で、宣教師の十字架を受け、 日本の宣教地に派遣されるようになりました。出発の日(1925年12月28日)、リナルディ総会長は日本の宣教師団に派遣の思い出のことばとして、
 「日本にイタリアの文化や自分の知識ではなく、イエス・キリストの愛を持って行きなさい」
 と仰ったのです。
 彼らは日本にたどり着くまで、43日間も船の上で過ごし、初めて日本語を勉強しました。日本に着く少し前に、彼らに日本語を教えた先生はチマッティ神父に尋ねた。
 「日本語の通じないあなたたちはどうやって宣教活動ができるのでしょうか」。
 チマッティ神父の答えは有名です。
 「分かりませんが神が教えて下さるでしょう。差し当たり、私達は聖フランシスコ・サレジオの優しさのやり方と、ドン・ボスコの宣教熱でスタートしたいのです」。



   私の心と考えは日本人の心と考えである    


 チマッティ神父は人を思いやり、歓迎し、歌と音楽をもって喜びを与えようとする人柄の持ち主であった。 宮崎・大分・中津教会でのパリ・ミッションの宣教師たちの宣教地を受け継ぎ、彼らに学びながら、宣教活動に励んだのです。 時間の経過とともに、一人前の宣教師となり、指導者となりました。
 前の宣教師たちから、「日本での布教活動の大変さ、難しいさ、人が洗礼を受けないこと」をよく言われたが、チマッティ神父は次の目標を掲げながら、 布教に専念しました。
 「日本と日本人を愛すること、一切日本について悪口を言わないこと、日本語と日本の習慣を身に付けること、自分の故郷のことについて話すならば威張らないこと、 日本人の気持ち(feeling)を自分のものとすること、日本人を友達にすること、祈ること、働くこと」。
 チマッティ神父はイタリアの恩人に手紙を出してこのことばを書いた。
 「私の心と考えは日本人の心と考えである」、「日本は50年も真面目に働き、先進国となった。福音宣教の50年の働きがあったが同じように成長したと言えない。 恐らく、宣教師たちの愛が足りなかったからです」と。

                                                  チマッティ資料館
                                                  マルシリオ神父
                                                 令和 7年 9月 6日                                                   




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