派遣する人たちは並大抵以上の能力に富んでいなければならない
若い時チマッティ神父と働き、後に中国の宣教師となったブラガ神父に、チマッティ神父はこのことばをかけました
「長上が私に宣教地へ行く許可をくれたら、膝で宣教地まで歩いても良いのです」。
1923年12月8日(無原罪の祭日)。チマッティ神父はこの日に、サレジオ会総長フィリッポ・リナルディ神父に宣教地へ行く願書を出した。
「私は楽な生活の今の場所に合わない。一番貧しく、苦労をかける遠い宣教地に派遣して下さい」と。
総長はその手紙を引き出しに入れた。丁度その年の始めの方に、リナルディ神父はバチカンから手紙を受取っていたのです。
「日本・長崎教区、具体的に宮崎・大分にサレジオ会の宣教師たちを派遣して下さいませんか」と言う願いの手紙でした。
しかしその手紙に留意に値することばがありました。
「日本の文化と生活レベルを考えて、派遣する人たちは並大抵以上の能力に富んでいなければならない。
日本で霊的な実りをもたらすために、学校を開いて、教育宣教活動しながら、管理する力が必要だからです」と。
リナルディ総長はバチカンに承諾の返事を送ったが、時期として、ドン・ボスコの最初の宣教師派遣50周年に当たる1925年の秋と定めました。
リナルディ神父は日本にサレジオ会設立のために、当時、一番適している準備された者として、チマッティ神父を選んだのです。
彼に派遣の知らせを伝えたのは1925年6月18日です。
希望と勇気をもって新しい道に立ち向かった
さて、46歳のチマッティ神父はどう言う気持ちでこの知らせを受けたのだろうか。やはり、年齢、新しい生活の仕方の前に立たされて、
少し困惑したが、若い時から願っていたことですから、神の呼びかけと思い、希望と勇気をもって新しい道に立ち向かったのです。
チマッティ神父の気持ちは彼の手紙に表れている。
「今日、異なった役割の最初の日。東方の人の願望、考えとは?・・・日本、桜と菊の花、カリンとカキの木、
火山と地震の国・・・新しい歴史・・・涙・喜び・複雑な気持ち、生活の異なった方向付け・・・笑いも、悩みも多くあるだろう!」
宣教師の十字架を受け、身に付けました
1925年11月11日にトリノ、ドン・ボスコが建てた聖堂で、172人のサレジ会員、52人の扶助者聖母会員が宣教師の十字架を受け、身に付けました。
日本への出発の日(12月29日)に、リナルディ神父は中国と日本へ行く宣教師たちと共にミサをたて、思い出のことばを与えた。
「あなたたちは文化的・物質的な発展を遂げた遠い国の方へ出発します。そこであなたたちが必要であるのはイエス・キリストとその愛を運ぶためです」。
チマッティ神父はドイツの船「フルダ」に」乗り、そこからリナルディ神父に感謝の手紙を出し、
「今までのことから断ち切ろうとしています。これから、イエス・日本と日本人のみにこころを」と。
チマッティ資料館
マルシリオ神父
令和 7年 10月 6日
チマッティ神父の生涯目次ページへ
|