熱烈に宣教師になりたかった
チマッティ神父は日本宣教地に着いたのは丁度100年前、1926年2月8日です。なぜ46歳になるまで待たされたのでしょうか、
また、熱烈に宣教師になりたかった彼は宣教師についてどう言う考えを持っていたのでしょうか。
チマッティ神父は17歳から46歳までトリノ・ヴァルサリチェ学院の教授としてずっと勤めたのです。
彼はドン・ボスコがサレジオ会員に与えたモットー;「da mihi animas,cetera tolle ― 私に霊魂をください、他のものを取り除いてください」;を実践するために尽くしたのです。
自然から多くのタレントに恵まれ、落ち着きと喜び、社交的性格をもって、人を魅了しながら、自分の若さを若者の教育に注いだのです。
しかし、イエス・キリストを伝え、もっと広い対象の人に奉仕するために宣教地へ行く強い望みを心に秘めていました。
実際に、イタリアの長上に何回もその望みを打ち明けたのですが、お母さんがひとりで生活していたし、教えていた学院で代わりを務める教授が見つからないので
、結局30年間トリノ・ヴァルサリチェの学院で過ごしたのです。1926年に妨げがなくなり、やっと日本の宣教地に派遣されることになりました。
宣教学を特別に勉強したこともないが、それまでの司祭職の豊かな経験と教会の伝統的な教えを通して立派な準備が出来ていたと思われたのです。
使徒職はこの日本をもっと愛する必要がる
宣教師に関する彼の教えはその手紙と話しに特に見られます。日本に着いてすぐ、前任者であったパリ・ミッシオンの宣教師たちについて、手紙でこのように書いています。
宣教師に関する彼の教えはその手紙と話しに特に見られます。日本に着いてすぐ、前任者であったパリ・ミッシオンの宣教師たちについて、手紙でこのように書いています。
「パリ・ミッシオンの宣教師たちは40年間も大分・宮崎地区で福音宣教に励み、宣教の基礎を立て、外国人に対する偏見、カトリックに対する迫害、
日本語の言語を覚えるために多くの苦しみを耐え忍び、やはり感謝の念を持ちながら、彼らから学ぶ必要がある」。
ある時、チマッティ神父は一緒に来日した同僚に次のことばをかけました「使徒職のこの日本をもっと愛する必要がる。そのため、日本の文化とことばを覚え、
日本人の心を理解しようとし、彼らのために祈りをささげる必要がある。今まで日本で働いた宣教師たちには、(これはチマッティ師の個人的な印象です)、
余すところのない愛があったとは言えない」。また「日本が外国に開かれて70年経過しています。日本は先進国になり、しかし
イエス・キリストの知識と信仰の点でさほど前進したと言えない、たぶん宣教師たちの愛が足りなかったからです」。
仕事における一徹、辛抱強さ、祈り、聖なる生活
チマッティ神父によると、宣教師たちが福音宣教しながら出会った困難は日本語と言うことば、日本人の文化の知識、日本人の心の理解と同一化の不足、
自国のことの優先です。日本の宣教師たちは次のことを念頭に置くべきです。日本の文化とことばの知識を身に着けること、誠のキリスト者であること、
日本人のこころを自分のこころとすること、そして一番必要とするのは、仕事における一徹、辛抱強さ、祈り、聖なる生活です。
チマッティ資料館
マルシリオ神父
令和 8年 2月 6日
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