恵まれた一つのタレント
尊者ヴィンチェンツオ・チマッティにとって音楽は一つの好みであったばかりでなく、自然から恵まれた一つのタレントでありました。
歌や楽器を重んじるサレジオ会に入会して、修道会の養成を受ける間にも音楽を教え、ピアノやオルガンをひき、パルマ音楽大学で勉強し、
21歳で合唱団の指揮卒業証書を手に入れました。46歳までイタリアで活動され、その間に何回もピアノコンサートや作曲したオペレッタを通して
サレジオ修道会世界を喜ばせ有名人になりました。彼の最初の美しい作曲はイタリア語の「アヴェ・マリア」であり、全世界で知られ、
人の感激を誘ったオペレッタは「マルコ漁師」でありました。
最初の音楽コンサートが披露されました
1926年46歳になり、日本に派遣され、ここでサレジオ修道会を特に音楽を通して紹介し始めました。
チマッティ神父の生活原則の一つは次の通りです。
「人々に善を施すチャンスを見逃さないこと。
イエス・キリストを知らせること。
人を慰め喜ばせること。」
チマッティ神父はあらゆる方法でこれを実行しようとしましたが、特に彼の音楽に対する才能と活動を通して、これを行いました。
1926年はアッシジの聖フランシスコの帰天700周年に当たり、鹿児島教会にだけでなく、町の市民にもその出来事を知らせることになりました。
そこで働いていたフランシスコ会の神父たちはサレジオ会を招き、こうして鹿児島市の大きなホールで最初の音楽コンサートが披露されました。
それは、チマッティ神父のピアノソナタと伴奏、二人のサレジオ会員によるいくつかのイタリアの歌、そして宗教の話でした。
それは大成功に終わりました。当時のチマッティ神父のことばが残っています。
「まだ日本語を話せなかったのに、サレジオ会の私達は初めて日本の公の場に立ちました。
良かった。
多くの日本人は感激し、音楽を通して初めて神のことを知りました。
私達にもどのように福音宣教に専念すればよいかを教えてくれる機会となりました。」
外国人のお坊さんたちが来日しました
このイベントは日本の新聞に載り、皆に知られるようになり、新聞にこのことばがありました。
「宗教を知らせるために、とても面白くて新しいやり方を持って、外国人のお坊さんたちが来日しました」と。
チマッティ神父はこの時から20年間、2000回以上、日本全国の教会、町や色々な所で、この形の福音宣教で知られるようになりました。
コンサートをする時の彼の態度はどうだったのでしょうか。京都教区の古谷司教のことばは、
「チマッティ神父はいつもスータンのままでピアノをひき、人が喜ぶのを感じて自分も子供のように微笑む顔を見せていました。」
大阪の司教は、
「チマッティ神父は人の感激を引き起す力を持つ人でした。」
当時の新聞にこのような記事がありました。
「チマッティ神父のピアノをひく技術は日本人のだれにも真似出来ないものである。鍵盤の叩き方は独特で、リズムは完全で、
メロディーは美しい流れのように快適、伴奏は見事でありました。すべては個性的で私達の技量を遥かに超えるものである。」
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 4年 6月 6日
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