ドン・ボスコ列福式に招かれイタリアへ  




ドン・ボスコ列福を祝う



  ドン・ボスコ列福式に招かれイタリアへ  


 1929年の始めにはドン・ボスコの二つの奇跡が認められ、ピオ11世はドン・ボスコをその年の4月21日に列福することを決めました。
 トリノに本部を置いていたサレジオ修道会の長上らは、この大きなイベントを祝うために、全世界のサレジオ会管区の責任者を ローマの儀式に招待しました。さらに、それをきっかけに、トリノ本部で修道会の総会を開くことにしました。
 チマッティ神父は日本での生活は大分・宮崎の責任者として3年、その内、宮崎の主任司祭として2年間しかたっていなかったので 断ろうとしましたが、長上らの強いことばのために、カボリ神父を宮崎教会の主任に任命してから、船に乗り、イタリアに赴きました。 カボリ神父の報告によりますと、チマッティ神父が宮崎教会を出発したときに多くの信徒が見送ったばかりでなく、 多くの人は涙をながしました。
 チマッティ神父は1929年3月の半ばから12月の終わりごろまで日本を留守にしました。
 イタリアのヴァルサリチェでドン・ボスコの棺が開かれた時に参加し、ローマでの列福式、トリノでのお祝いに与りました。
 「若者とサレジオ会員ばかりでなく、多くの数えきれない人の参加と喜びに驚いた」とチマッティ神父は書き残しています。



  イタリアで日本での宣教活動を紹介    


 その年の夏にトリノでサレジオ会の総会に参加し、自分の意見、特に宣教活動についてのべました。 その外に、全イタリアのサレジオ会支部と教会を回り、日本の知られていなかった状態と宣教活動のことを紹介しました。 目的の中に大分・宮崎地区の経済的な援助もありましたが、イタリアは不景気であったので、期待していたようになりませんでした。



  新たな神学生、修道士、司祭、シスター達が来日    


 チマッティ神父は1929年12月の終わりごろに宮崎に戻りました。ドン・ボスコの列福のお祝いとして、 サレジオ会から8人の神学生を日本につれて来ました。さらに、彼が日本にたどり着く一か月前に、 扶助者聖母修道会から5人の姉妹たち、また一人のサレジオ会司祭と一人の修道士が日本に派遣されました。
 このようにして1930年が始まりました。彼が、サレジオ会の責任者として、先ず自分の住居を宮崎教会に定め、 シスターたちと神学生の住む所を確保しました。お金が足らず、とても貧しい家を借りることになりました。 1930年はチマッティ神父の叙階25周年でもありました。



  どうやってドン・ボスコを宮崎と大分でお祝いしましょうか    


 先ず、ドン・ボスコの新しい伝記を印刷し、1930年の5月31日から6月6日まで、毎日サレジオ会司祭が働く町の 一般市民ホールでコンサート・講話を計画して実行しました。朝には各教会で、信徒と親交のある人と祈り、 昼には町の当局者を食事に招き、夕方にはコンサートと教育者ドン・ボスコについての講話が行われました。 コンサートと講話は教皇大使と町の当局者の参加もあって、当時のカトリックに対する偏見を拭い去ることなどに とても役に立った出来事となりました。
 チマッティ神父個人のノートにはその評価があります。
 「日本でもドン・ボスコは祝われました。新聞にも載りました。すべては成功しました」   



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 2月 6日


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