聖徳の道を歩んでいた
健在の間も、チマッティ師はすぐれた霊性をもち、一生、完徳を目指して生きていたと多くの人が証言している。
長上に送った親展の手紙によく次のように書いている。「私は聖人になりたい、どうしてもなりたいから、助けてください。
偉大な聖人に。早く聖人になりたい。」
ヴァルサリチェでは、チマッティ師は、司祭生活、修道生活、サレジオ会生活の模範と認められ、もうすでに「聖人」だという評判であった。
その時のいくつかの証言を紹介してみよう。
フランコ・アメリオ神父…「ヴァルサリチェに来て間もなく、チマッティ神父は聖人だと神学生が言うのをよく耳にした。
私にとって彼はサレジオ会員の理想的な姿である。いつでも、何でも完全にやっていた。」
A・パワ神父…「チマッティ神父は聖人だというのは彼の教え子たちの共通認識だった。
だが、彼は自分の徳を無理もなく、自然に隠すことができた。ヴァルサリチェ時代に、チマッティ神父が、
人間として、また修道者として完徳に達し、聖徳の道を歩んでいたことは確かである。」
日本では、チマッティ師は絶えず完徳への憧れが深まり、最後の病気の苦しみの時に頂点に達したというのが皆の共通見解である。
「完全な愛のうちに死ねるように」と皆に祈りを願っていた。
列福調査
チマッティ師の聖なる人生の評判は高かったので、亡くなってまもなく、列福調査開始の許可申請が聖座にすぐ出されるだろうと予想されていた。
そのために、早くも資料を集める作業が始まった。長上がクレバコーレ神父を任命し、
彼が熱心にできるだけ多くの証言や、資料を集め、整理し、それらを800頁に及ぶ本にまとめた。
この仕事に何人かの会員も協力した。
列福調査担当のルイジ・フィオラ神父がこの資料をよく研究し、
バチカン列福列聖調査省が審議する“Positio super virtutibus”という1800頁に及ぶ資料のまとめを書いた。
1976年9月から1978年まで、東京の大司教館で日本における証言調書が作成され、同じく、
イタリアにおける証言調書が1978年4月4日から6月3日までトリノの大司教館で作成された。
証人(司祭や男女信徒72名、東京で53名、トリノで19名)は、東京とトリノの大司教が任命した特別委員会のメンバーの前で証言した。
同時に、チマッティ師の書いた書物の審議が進められ、1981年、終了の段階で、その結果は、なんと22冊の本にまとまった。
担当の2人の神学者は肯定的な判断を下し、1人は「全く肯定的」と書き記し、
もう一人は、「チマッティ神父は、現代の宣教師の模範として仰ぎ見られるべき人物である」と言い残した。
その時、列福調査は重要な第一歩をふみだしたと言えよう。
『 尊 者 』
チマッティ師の徳の審議は9人の神学者に依頼され、1991年に171頁の本に9つの報告と評価で発表された。
徳の審議というのは、「キリスト教生活の基本徳」として、信仰、希望、愛の対神徳をはじめ、賢明、正義、剛毅、節制の四大枢要徳、
その他に清貧、貞潔、従順、謙遜、聖性の評判を含むものである。列福調査担当のフィオラ神父は、
チマッティ師の伝記の冒頭に、その審議の結果を、次のように紹介している。「チマッティ神父の資料を研究し、
審議した担当の神学者は彼の英雄的な徳について肯定的な判断を下しただけでなく、
チマッティ神父は、サレジアン・ファミリーの歴史のみならず、日本の教会歴史に誇る抜きんでた人物であり、
今世紀の最もすぐれた聖人の一つの姿を見せてくれた人物である。」
1991年12月21日、ヨハネ・パウロ二世教皇は、チマッティ神父に『尊者』の称号を与えられたので、
今、彼の取り次ぎを願いながら、神に祈ることができるようになった。
チマッティ資料館
マルシリオ神父
令和 7年 4月 6日
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