日本に派遣される前のチマッティ神父  




高校生達への挨拶



  いつ司祭になりたいと思ったのでしょう  


 チマッティ神父はイタリア人で、日本にお出でになる前は、46歳までイタリアで福音宣教に専念していました。
 15歳までふるさとのファエンツァ市に住み、16歳の時にサレジオ修道会に入会するためにトリノ・フォリッゾにて修練期を過ごし、17歳から46歳までは、トリノ・ヴァルサリチェサレジオ学院で先生として勤めました。
 第1世界大戦の間に8年間トリノ聖ジョバンニ教会(オラトリオの担当者として)で過ごしましたが、その間、ずっとトリノ・ヴァルサリチェ学院に教えるために通っていました。
 ヴィンチェンツォはファエンツァで、市の幼稚園と小学校に2年まで通い、小学校3年から中学校の終わりまでは、サレジオ学校で勉強しました。
 ここで彼の中に司祭になる望みが誕生しました。  「いつ司祭になりたいと思ったのでしょうか」と尋ねられたチマッティ神父はこのように答えしました。
 「私はとても恵まれた環境で育てられました。3歳の時にドン・ボスコを見ました。サレジオ会の施設で教育を受けましたが、主に仕える気持ちは最初からずっとありました」。
 ヴィンチェンツォは音楽の才能に恵まれ、美しいソプラノの声も持っていたため、彼の貧しい家庭の助けにまた彼自信の将来を考えて、彼の利益になるようなことを何回も勧められましたが、彼は感謝しながら
 「私は、ずいぶん前から私の声を神にささげる約束をして、ドン・ボスコの修道会に入って司祭になるつもりでいます」と言って丁寧にいつも辞退していました。



  生涯ずっと着ることになる黒いスータン    


 15歳になったヴィンッチェンツォはピエモンテ州のフォリッゾで1985〜86年の一年間を過ごし、サレジオ修道会に入りました。修練者は137人でした。
 ミカエル・ルア総会長様から、生涯ずっと着ることになる黒いスータンをその時受けました。テッロネ神父はその一年の間に修練者の養成を手伝っていましたが、ヴィンチェンツォについて、次のことばを書き残しています。
 「タレントの多いヴィンチェンツォはその137人の内でいつも一番でした。お祝いの時にヴィンチェンツォはよく演劇と音楽のことでほめられていましたが、その謙遜と優しい態度のために、他の修練者の間に妬みを起すことはありませんでした。
 ヴィンチェンツォは、人を喜ばせるのは当たり前、務めに過ぎないです、ということばを口にしていました。」



  46歳までイタリアで福音宣教に専念していました    


 チマッティは17〜46歳まで29年間もトリノ・ヴァルサリチェ学院ですごしました。当時ヴァルサリチェ学院は高等学校・師範学校・神学校でありました。
 ここで、チマッティ神父は神学生、新司祭、学校の教授、校長、そして院長として勤めました。
 神学生であった時にヴァルサリチェでなくなった(1897年)、今には尊者であるアンドレア・ベルトラミ学生と生活することができました。 この神学生の生活目標は「犠牲、祈り、仕事」でありました。実際にこのことばはチマッティ神父自身の生活全体をまとめることばでありました。
 神学生さらに新司祭時代のチマッティがどのようであったかについては、次の2人の証人のことばを引用します。
 「彼は真の先生、いつも微笑み、丁寧なやり方で学生に接していました。人を喜ばせることで、学生には「愛と犠牲の天使」のようなお兄さんでした」。
 司祭叙階を受けてからは、「彼のことばは神を体験し、体験させる霊魂からあふれ出ることばでした」。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 6月 6日


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