黒い服のモンシニョーレ   



宮崎教会で堅信を授けたブルトン司教

宮崎教会で堅信を授けたブルトン司教(左側がチマッティ神父)



   初代「モンシニョーレ」になったチマッティ神父   


 1935年、宮崎の宣教地区は知牧区に昇格し、チマッティ神父はその初代Prefetto Apostolico(知牧者)となった。「モンシニョーレ(教会司牧者の尊称)」 になったチマッティ神父は赤い服を着、荘厳なミサの際に、ミトラ(帽子)とバクルス(杖)を使用することが出来た。 私たちは、一度でもよいから、そのような姿のチマッティ神父をみたかったが、彼はそうは思わなかった。称号や名誉職に関心はなく、目立つことを心から嫌っていた彼だったが、 権威を有する人々に対してはきちんと尊敬の念を示していた。
 そのうち、イタリアの友人たちはモンシニョーレ用の「赤い服」を送ってきた。チマッティ神父は、「私は貧しい人を助けたいので、その服を売ったお金を送ってください」 と手紙を添えて、赤い服を送り返した。チマッティ神父にとってこのやり方は当然のことであり、イタリアの友人たちもそれを理解し、悪くは思はなかった。 イタリアの友人が半分面白がって送ってくれた大理石のミトラは受け取って、神学院の博物室に収めた。



   清貧に対する態度    


 知牧者でありながら、サレジオ会の管区長も務めていたチマッティ神父は、兄弟の会員と共に、会員の一人として、見栄を張ることなく働き続け、 皆に生活のよい手本を見せることが、彼のただ一つの関心事であった。「モンシニョーレ」と呼ばれて最初は異を唱えていたが、ついにそれに慣れてしまった。 ところが彼のスータンは新しくなることなく、つぎはぎだらけであった。彼の持っていた衣類はとても少なかったが、新しいものを贈呈しようとしても、決して受け取らなかった。 貧しい家庭に生まれ、清貧を愛し、それを英雄的に生きていたが、他人にそれを押し付けるようなことはなかった。
 かえって誰彼かまわず寛大に助けていた。チマッティ神父は外観からすれば、大した神父ではないと思われたかもしれず、彼自身もそのように判断されたかった。 しかし、外部的な貧しさは、まれに見る内的な豊かさを秘めていた。清貧に対する彼の態度は、人によく見られたくない、また、自分を卑下したい彼の気持ちを表していた。



   摂理に対する絶対的信頼    


 チマッティ師は、摂理に対する絶対的信頼をもっていた。ある時、チマッティ師はブルトン福岡司教を訪れた際に、次の質問をした。
 「司教様は有能な管理者でおられるようですので、私によい勧めを下さいませんか。」
 「よろしいですとも。しかし、その前に、あなたはいつもどうなさっていますか。」
 と司教は尋ねた。
 チマッティ師は「私は寄付を受ける時、すぐに一番必要なものに使ってしまいます。そうすると、摂理がまた助けてくれると信じて」と答えた。
 「それが一番いい。そのようになさい。」
 とチマッティ神父をよく知り、尊敬していたブルトン司教はほほ笑みながら勧めた。
                                      「チマッティ神父と歩んだ日々」  レナート・タシナリ より



                                                  チマッティ資料館
                                                  マルシリオ神父
                                                 令和 7年 7月 6日                                                   




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