1940年
1940年は、チマッティ神父にとって、三つのイベントのために、生涯ずっと記憶に残る年となりました。
それらは「日本帝国設立2600周年、オペラ曲細川ガラシアの作曲、宮崎知牧区責任の解除」であります。
「帝国の始まり」記念
「帝国の始まり」記念について、チマッティ神父は次のことばを書きました。
「神話によると、日本の天皇陛下の最初の先祖が、この宮崎県で神からこの世に下って、日本全土へ制覇の旅に立った。
2600周年はこれを祝い思い起こすものです。
不思議な話ですが、日本の歴史の始まりには神の訪れが認められます。
その時から今までの歴史を見ると、神は多くの恵みを日本と言う国に与えられた。例えば、統一、憲法作成、自由な生活、
独特な精神、また外国から必要と思われることの受け入れ能力、そして特に神からの一つの使命を授かりました。
お祝いと感謝するのは当然なことです」。
こう言う考えを持っていたので、日本のNHKラジオ局から、このイベントを記念するために、
ピアノソナタを求められた時にすぐ応じたばかりでなく、自らそれを演奏したのです。
それは1940年1月3日、宮崎放送局から日本全国に放送されました。このソナタは三つの部分から出来ています。
「日本の指導者の上への神の降り・日本の統一のために海の上を旅する最初の天皇・神武天皇の戴冠式」です。
このソナタには、日本の古い時代のメロディーが間にはさまって繰り返されます。この曲は大成功を収め、
チマッティ神父は宮崎だけでなく、福岡、長崎、東京にも演奏することとなりました。
オペラ「細川ガラシア」
同じ年に「細川ガラシア」と言うキリシタンの歴史的な人物の劇に音楽を加えて「オペラ曲」に変える要望を受け入れました。
当時チマッティ神父は、日本全国で色々なコンサートを行っていたので、音楽家として良く知られていました。
東京上智大学の学長であったヘイマン・フーバー、イエズス会の神父が、その劇の脚本を書いたのです。
チマッティ神父は作曲を求められ、オーケストラを加えて、その年の1月24日に東京日比谷ホールで上演しました。
このオペラは日本人の関心と好感を得て、日本の多くのところで繰り返し上演されました。
チマッティ神父は日本人を神に方向付けるためにあらゆることに努めました。
宮崎教区長を日本人に譲る
この時までチマッティ神父は何をするにしても、人の前に出る時に、いつも黒いスータンを身に付けていました。
しかし1940年の終わりごろに、日本の政府は外国人宣教師に対して、いくつかの辞令を出すようになりました。
「スータンをクレルジマンに、責任ある地位の外国人宣教師たちは日本人に責任を譲ること、
外国から日本のカトリック施設の援助を求めないこと、日本に恥をかかせることがないように、などです」。
チマッティ神父はずっと国の指示に従う人であったので、直ちに自分をそれに合わせただけでなく、
自分の管轄の下にあった司祭たちにもそれを求めました。
それからサレジオ会の本部とバチカンの長上に連絡を取りながら、日本で働いていた外国の教区長たちの中で、
彼は一番初めに模範を示し、宮崎教区長の責任を1940年10月16日に日本人に譲りました。
彼のことば「日本の教会の良き将来のために何でもします」。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 5年 1月 6日
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