チマッティ神父・・・宮崎教会の主任司祭  






当時の宮崎教会

当時の宮崎教会

宮崎教会の子ども達

宮崎教会の子供達
(写真の下に「宮崎の主任司祭の一番大事な宝物」と書いてあります)



  宮崎教会の正式な主任司祭に任命される  


 チマッティ神父は来日してわずか1年後の1927年2月1日に宮崎教会の正式な主任司祭に任命され、 1929年の春まで2年3ヶ月間、主任司祭として勤めました。
 この時期、サレジオ修道会が担当していた宮崎、中津、大分教会は長崎教区から分離され、 1年間程、福岡教区に所属することになりました。その後、サレジオ修道会として中国管区に依存していましたが、 1928年に独立宣教地区また日本の副管区になり、チマッティ神父はその責任者となりました。



  チマッティ主任司祭の働き    


 さて、チマッティ主任司祭の働きについて、いくつか申し上げましょう。
 当時、宮崎教会は宮崎県の教会であり、200人ぐらいの信徒がおりましたが、一緒に助任として勤めていたアントニオ・カヴォリ神父の助けもあって、 短時間で大多数の信徒の家庭を訪問し、教会の信徒の状況を把握することができました。 信徒の大部分は長崎出身の者で、迫害されたキリスト者の子孫でありました。 残念ながら、信徒は教会が遠くて、それまで司祭の訪問もなくて、迫害の恐れのために、熱心さに欠け、宣教するどころか、 自分に閉じこもり、教会に行くのは一年に1、2度のみでした。
 そのほか、信徒は信徒でない人と交わっていけない、特に子供がキリスト者でない子供と遊んではいけない、 と言う考えを持っていました。
 チマッティ神父は新しい信者をつくるため、また旧信徒の狭い考えを変えるために様々の工夫を講じました。 先ず、家庭訪問を頻繁にすることを決めました。またカトリックの祝いの他に日本の独特な祝いを教会で荘厳に行い、 多くの人の参加を求め、新聞記者の協力を得て、記事を新聞とチラシに書き始めました。教会でコンサートを行ったり、 教会の庭を運動場に変えたり、また町の当局者や鹿児島の宣教師を招待したりして、教会を知らせるために宣伝に力を注ぎました。
 1927年に日本と宮崎市を訪れた有名な二人の人物に、日本にキリスト教を知らせるために尽くしてもらいました。 一人は北極を発見した有名なイタリア人のノビレ大将であり、もう一人はサレジオ会の副総長ペトロ・リカルドネ神父でありました。 リカルドネ神父は日本を訪問してからイタリアに帰って「チマッティ神父は日本で自分の多彩なタレントと心を使って日本人を引き付けています」 と語っていました。



  目標を掲げる    


 1928年の始めにチマッティ神父は九州の教会で働いていたサレジオ会員に次の目標を掲げました。
 「教会の近くに住んでいる信徒をせめて一か月に一度訪問すること。遠く住んでいる信徒を3か月に一度訪問すること。 キリスト教をもっと理解してもらうために、チラシ、新聞記事、本などを書いて配ること。 お祝いに町の主だった人を招待すること」
 宮崎県を回って、宣教師の人材不足を感じ、イタリアの総長に手紙を出し、人材を求めていました。
 「日本に宣教師を派遣して下さい。しかし、よく祈る人、しっかりしている人、特に貞潔を守る人、忍耐強い人を送って下さい。 日本では怒りっぽい人、不忍耐の人は日本人を遠ざけさせます」
 このことばはチマッティ主任司祭を私達に知らせてくれることばです。
 アントニオ・カヴォリ神父はチマッティ神父の使徒職についてこのように書いています。
 「チマッティ神父は特にお祝いの日に、長い時間をゆるしの秘跡にあてていました。毎日曜日、分かりやすい日本語で、 信徒に講話をして、十戒を説明していました。父や母や若者の会でも話をしていました。 話の中で強調していたのは、十戒の実行、秘跡への頻繁な参加、福音宣教における積極性です。 宮崎教会は短時間で他の教会からモデル教会と見なされていました」
 ある一つの家族のお父さんのことばがあります。
 「チマッティ神父が宮崎教会の主任司祭になった時から、司祭がとても近いお方であることを感じるようになりました。 チマッティ神父は感情を込めて話をしていました。彼は私達を愛し、私達も彼を尊敬しながら愛していました」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 1月 6日


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