チマッティ神父を悩ませた 1935年  






新しい人材

1月11日神戸に着いた新しい人材。黒いひげの人はバルバロ神学生

ピアチェンツァ神父の葬儀

1935年6月4日 ピアチェンツァ神父の葬儀




  大分・宮崎が独立した地牧地域に上げられる  


 1935年には九州でのサレジオ会の福音宣教が広がり、宮崎市、田野市、高鍋市、別府市、大分市、中津市のあらゆる町に及び、 あちこちで問題に遭遇してはいましたが、順調に発展していました。 信者も増えていましたので、バチカンは1935年1月28日日に大分・宮崎という独立していた福音宣教地は地牧地域に上げられました。



  チマッティ神父、大分・宮崎の教区長に任命される    


 実は前にサレジオ会の副総長ペトロ・リカルドネ神父は日本訪問の時に(1927-28年)、その話を当時教皇大使であったジャルディニ大司教と交わしていました。 そしてこの新しい地牧の教区長としてチマッティ神父の名前が挙がっていました。 しかし本人はずっと反対していたので、1935年1月28日に本人に連絡せず、また承諾を得ずに バチカンから届いた一つの辞令によって、ヴィンセンツオ・チマッティ神父は大分・宮崎の教区長に任命されました。
 いうまでもなく、チマッティ神父は受け入れましたが、バチカンにもサレジオ会の長上にも手紙を出し、 感謝を表しながらも、そういう身分に付く名前と服装、「モンシノーレ」と「赤い服」を着るのを断りました。 手紙に書いた理由は、ドン・ボスコもその後継者ミカエル・ルア神父も提案された時に断ったからだけではなく、 自分が精神的にそういうふうに扱われるのを嫌ったからでした。さらに彼はサレジオ会員として生き、死にたいと申し上げました。 実際にイタリアから、彼の昔の学生たちは「司教の服装」を送りましたが、チマッティ神父はそれを送り返し 「こういう飾り物は私に似合わない、それを売ってお金にしなさい」と手紙を出しました。 日本のサレジオ会員は、チマッティ神父が嫌がっていても、彼が生きていた間ずっと、そして今も「Monsignore」「閣下」と呼んでいます。



  三河島教会のピアチェンツァ神父亡くなる    


 1935年の6月3日、東京から悪い便りが届きました。三河島教会の担当司祭ペトロ・ピアチェンツァ神父が43歳でなくなりました。 この神父は最初の9人の宣教師たちの一人で、若い時のチマッティ神父の学生であったばかりでなく、将来のことを考えて、 一番期待を寄せていた方でありました。チマッティ神父にとって大きな悲しみの元となりました。 ベッルティ副総長に手紙を出してその悲しみを表しました「神のみ旨が行われますように。 ピチェンツァ神父は友であり兄弟であった、彼が天に召されて代わりに努められる者は他にいません」。



  日本では「上に立つ」という事は難しい    


 1935年にもう一つのイベントがチマッティ閣下の心を悩ませました。宮崎地区の隣の地区、 鹿児島ではサレジオ会宣教師の友達であったフランシスコ会の宣教師たちが、 ある信者が言った悪口のために福音活動から退くことになりました。 それは、国家主義、軍国主義、外国人嫌悪主義のためでした。 チマッティ神父はこのような時に教区長になって、日本では「上に立つ」という事はなおさら難しい、と思わされました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 4月 6日


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