チマッティ神父と日本での福音宣教  




聖福音

書籍「聖 福 音」

からしだね

月間リーフレット「からしだね」



  本物の宣教師  


 尊者ヴィンチェンツオ・チマッティ神父が多くの日本人に知られているのは、その音楽的な才能のためでありますが、 実は彼の根本的な特長は本物の宣教師であったことです。
 サレジオ会の創立者であるドン・ボスコの心そのものの持ち主であった「Da mihi animas」 「私に人の心を・・・私に人の心を主に会わせる力を」がヴィンチェンツオ・チマッティ神父の根本であったのです。
 彼は何回も音楽コンサートを披露しながらも、いつも自分を宣教師として紹介し、当時、宣教師たちが着ていた黒いスータン、 そして、はやしていた髭の姿で人の前に出ていました。彼について彼自身が言ったことばがあります。
 「私の望みは日本人にイエス・キリストの良き便り(福音)を告げることと、青少年の教育における助けとなることです」



  福音宣教の活動    


 さて、福音宣教の活動はどういうことで思い出されているのでしょうか。
 日本に着いたばかりの頃、チマッティ神父はすでに日本で働いていた宣教師たちと連絡を取り合い、 学びながら自分のやり方を分かち合いました。それは音楽、寄り添い、喜び、愛することです。 宣教師たちは「チマッティ神父は宣教に新しい空気とエネルギーを入れた」と言っていました。
 彼は宗教・政治のあらゆるレベルの権威者に尊敬と配慮を表し、自分の家に招いたり、自分も彼らを訪れたりして、 多くの友達を作ろうとしました。この際にもドン・ボスコの勧めを実行しました。 「権威者に対して畏れ、尊敬、愛を示しなさい」。
 実際に彼が働いた所の権威者は、考えかたが異なっていたにも関わらず、チマッティ神父を慕ったのです。
 当時カトリック教会で流行っていたスライドを使って、自分の貧しい日本語を補い、若者にも年寄にも、 福音を伝えながら、集会、家庭に於いても人を魅了したのです。
 しかしチマッティ神父は特に印刷物を使って福音宣教に力を注ぎました。次のことばに彼の考えが見られます。
 「日本において印刷とは善にしろ、悪にしろ、巨大な武器である」
 まだ日本語が不完全にもかかわらず、すぐにドン・ボスコの短い伝記を書いて日本全国に紹介し、 日本のあらゆる当局者や当時のすべての宣教師に送りました。



  主のみ旨による僅(わず)かな仕事    


 1930年、大分で出版社をつくり、そこから「ドン・ボスコ・・・芥子だね」と云う月間のリーフレットを出し、 冒頭のことばを書くことにしました。この出版社は1935年に東京に移り、現在の「ドン・ボスコ社」となっています。
 1931年に日本のカトリック教会では「カトリック新聞」が誕生しました。チマッティ神父は自分の宣教地で すべての宣教師や信徒、未信者にも渡るようにしました。
 彼は自分の活動についてこのように書いています。
 「コンサートやキリスト教についての執筆やサレジオ会員の指導、日本に生きる手段を見つけることは私にとって 主のみ旨による僅かな仕事でありました」
 最後にイエスス会のアッルペ神父のことばを引用します。
 「私はヴィンセンツオ・チマッティ神父の愛、優しさと使徒的な情熱に感嘆しています。その姿を日本の宣教師たちに輝く模範として知らせる必要があります」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 7月 6日


  チマッティ神父の生涯目次ページへ