独立した管区
チマッティ神父は9人のサレジオ会員の団長として、サレジオ修道会を日本に持って来ました(1926年2月)。
10年間の宣教活動を経て、会員も事業も増え発展しているので、トリノ本部の長上は、日本で日本のサレジオ会を
一つの独立した管区にすることを決めました。その辞令が担当者であったチマッティ神父に届いたのは1937年12月20日です。
新しい管区の名前は「聖フランシスコ・ザビエル管区」で、管区長の名は「チマッティ神父」でした。
彼は実際に1949年までその地位にあったので、24年間も日本でのサレジオ会の福音宣教の重大な責任を背負ったのです。
この24年間に渡って宣教の開始から、発展、会員の養成と困難、絶え間ない経済的な貧しさ、そして日本の当時の色々な逆境などを考えると、
その責任を背負ったチマッティ神父にとって、さぞ辛い『24年間の殉教』であったに違いありません。
管区長任命の受け入れ
チマッティ神父はこの任命をどのように受け入れたのでしょうか。当時の総会長であったリカルドーネ神父へ宛てた手紙から
その気持ちを知ることが出来ます。
「任命はありのままの私に届きました。本部の長上は私の手紙を通して私のことは知っているはずです。
それにも関わらず、このようなことを決めたのなら、それは神の御心であることを意味します。
長上の望みを行うことには間違いがないと信じます。うちの会員に、次のことばでそれを伝えました
『今まで私のことを耐え忍んだようにこれからも辛抱強く私のことを我慢して下さい』、と」
サレジオ会員皆は、「長上と神の御摂理に感謝しました」と、彼に喜びを表しました。
チマッティ神父自身は、自分はこのポストに立つ資格と包容力のない者と見なしていました。長上への一つの手紙にこのことばがあります。
「私はロマニア地方の出身で、ものごとにいつも反対する気持ちを感じています。私が好きであるのは下っ端として働くことであり、
上に立つ人に対して、自分をも含めて、一種の嫌忌を抱き、不平を言う時があります」
彼はその責任を受け入れたが自分の霊魂と会員の霊魂の安全を考えて、
24年間の間に何回も長上にそれを撤回するよう願ったのです。
自分の欠点を認めることは義務であり、他人の欠点を耐え忍ぶことは徳である
さて、チマッティ神父は、どういう目上だったのでしょうか。日本を訪問したベッルティ副総長はこのように書きました。
「日本のサレジオ会事業には、チマッティ神父のやり方が見られます。家庭的なおさめ方、人への信頼と励ましのことば、
チマッティ神父は愛ですべてを包み、すべてを正す」
サレジオの聖フランシスコとドン・ボスコのことばの通りに、「蜂蜜の一匙は酢の一タルよりもハエを引き付ける」、
「最善は善の敵である」、「人に出来ることのみを求める」。
チマッティ神父は優し過ぎるという文句を言う人に、「皆に欠点があるが、自分の欠点を認めることは義務であり、
他人の欠点を耐え忍ぶことは徳である。私は愛のためにすべてを耐え忍びます」、
「神の前に立つ時、私は優しさについて裁かれたいのです」と答えました。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 4年 8月 6日
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