聖人と共に |
![]() 1926年 船上の宣教師達 |
私(レナト・タシナリ)は初めてチマッティ師にあった
1925年の秋、フィナレ・エミイアのサレジオ会の学校で、私(レナト・タシナリ)は初めてチマッティ師にあった。
私は中学校2年生13歳、チマッティ師は、トリノにある有名なヴァルサリチェ高校の校長、46歳、日本に向けて出発を目前に控えていた
サレジオ会員の宣教師グループの責任者として任命されたばかりであった。
日本について見事な話をしてくれたので、「日本に行ったことがないのに、どうして日本についてあれだけの知識があるのだろうか」と私は不思議に思った。
数年後、私も日本に行き、35年間、チマッティ師のそばで過ごすだろうとは夢にも思わなかった。 あなたは幸いですよ
1929年はドン・ボスコの列福の年であった。確かに、サレジオ会員にとって喜びと熱意の年となり、
数多くの若い会員は1929年に宣教地へ行く夢を見ていた。キャリの修道院でもこの話題で持ちきりになっていた。
9月、初誓願の準備をしている時、チマッティ師は修練院を訪れてきた。総会のために帰国していたチマッティ師は、
一緒に日本に行く宣教師、特に若い宣教師の募集に精を出していた。
四つの修練院を訪れ、各修練院から誓願をたてたばかりの二人の会員を選ぶ許可を長上からもらっていた。
キャリの修練院から選ばれた二人のうち、一人は私だった。大変驚いたが、チマッティ師と一緒に日本に行けるとはこの上ない素晴らしいことだろうと思った。 8人の神学生、その平均年齢は18歳だった
12月14日、ドイツの船でジェノワ港から出発した。希望と熱意に胸をふくらませた8人の神学生、その平均年齢は18歳だった。
日本に何をしに行くのだろうか。チマッティ師にはそれがわかっていた。彼の計画は、自分の協力者として、
日本で働く宣教師や司祭を日本で養成するというものであった。私たちは最初のグループだったが、その後、毎年、新しい人が次々にやって来た。
しかし、宣教師として熟するには長い年月がかかった。私たちは1月27日に宮崎到着。43日間の船旅であった。 チマッティ資料館 |