トリノ・ヴァルサリチェ学院へ
ヴィンチェンツォは16歳3カ月になった1896年10月4日、アッシジの聖フランシスコの記念日に、トリノ・フォリッゾにて、終生誓願をたて、サレジオ修道会の一員となりました。
同じ日に、トリノ・ヴァルサリチェに移り、そこでおよそ30年間、1925年まで、過ごしました。
ヴァルサリチェという学院にまだ聖人と宣言されていなかったドン・ボスコの遺体が葬られていました。
ヴィンチェンツォは3歳のときにドン・ボスコを見たが、この学院でドン・ボスコにあやかりながら、17,18、19歳の自分の心を磨きました。まず大学前の勉強と3年の哲学の研究に励みました。
彼の指導者となったのは、サレジオ世界でよく知られていたアロイジオ・ピセッタ神父でした。この先生は背丈がとても低いものであったが、霊性と知識の面で「動く図書館」と言われるほどのサレジオ会員でした。
チマッティ神学生はこの時にどういう若者だったのでしょうか。
ヴィンチェンツオ青春時代の心根
彼の院長であったピセッタ神父の印象深いことばがあります。
「この時期のチマッティ神学生は頭が抜群で、キリスト教的な徳をすべて実行していました」。
ヴィンチェンツォは自分の養成と勉強を行うためにヴァルサリチェに行きましたが、学院の音楽の担当先生が急になくなったので、2年生になる前に、その代わりに音楽を教える役割を委ねられました。
ヴィンチェンツォ・チマッティのこの3年間に関して、多くの証言が残っていますが、彼の二つの手紙からその時の彼の心境が見られます。この手紙は修練期の時の修練長ビアンキ神父に送られた手紙です。
その中で彼は自分の欠点をも打ち明けています。
「私はとても元気です。こちらでも悪魔が自分の存在を感じさせています。私もその誘いを受ける時があります。先生と呼ばれていますが、傲慢であり、意地っ張りであることを感じます。
こういう気持ちの時はドン・ボスコの墓を訪れ、聖母マリアにお祈りをして自分自身に負けないように頑張っています。音楽のことですが、意気込みを持ってピアノとオルガンを弾いています。
代数学の授業の間にも頭にあらゆるメロディーが浮かび、学風を認めてこの荒れた科目にも色合いを与えています」。
この手紙を書いた時に、ヴィンチェンツォは18歳でした。彼も同じ年齢の若者が感じる誘惑を感じ、困難に会っていますが、戦っていることが伺われます。
1898年、ヴィンチェンツォは19歳の3年生となります。同じ指導者、修練長の神父に手紙でこのことばを書きました。
「マリアさまについて話をするのがとても好きです。私は聖人になりたいのです。普通の聖人ではなく、偉い聖人になりたい、しかもすぐ聖人になりたいのです」。
ヴィンチェンツォはこの時から、もうすでに高い理想を自分の前に掲げていました。1899年に、二十歳になって、兵役の審査を受け、勉強を続けるためにその一年が延期されました。同年に、優秀な成績で3年間の勉強を終え、大学に入る資格を修めました。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 3年 4月 6日
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