第二次世界戦争とチマッティ神父   




練馬のサレジオ神学院

練馬のサレジオ神学院

職業学校の生徒も学徒動員。右端手前で、黒い学生服を着て起立している少年は、当時の金子神父

職業学校の生徒も学徒動員
右端手前で、黒い学生服を着て起立している少年は、当時の金子神父



   第2の故郷、宮崎から東京へ  


 チマッティ神父は宮崎教区長を辞退した1939年に、バチカンは後任として鹿児島教区長であった出口一太郎神父を選び、 その着任式は1941年2月23日に行われました。その着任式にはチマッティ神父始め、すべてのサレジオ会員が参加し、 チマッティ神父のことば少なに語った記録が残っています。
 「これも教会の善のため。私達にとっては祈ること、黙ること、そして出来ることを行うことです。 15年前に宮崎市に入った時に『感謝の祈り』を唱えたように、この機会にも神に『感謝の祈り』をお捧げしました」
 言うまでもなく、彼にとって第2の故郷、宮崎とその市民との絆はその心と祈りから最後まで消えたことはありませんでした。
 チマッティ神父は1944年まで三河島教会の主任となり、その後に戦争が終わるまで育英のサレジオ神学院に住むようになりました。



   戦争が勃発    


 1941年12月8日に日本とアメリカとの間で戦争が勃発しました。この年はドン・ボスコが叙階されて100周年に当たっていたので、 チマッティ神父は2回も荘厳に、コンサートと儀式をもって祝ったのです。2回目は戦争の始まりの日となりました。
 この時から、外国の宣教師たちには、住む所も行く所もいつも憲兵に伴われ、外国との一切の連絡を禁じられ、 日本を旅行することも禁じられました。
 しばらくの間は良かったのですが、やはり4年間の長い戦争のために、外国の宣教師たちにもその辛さと、 経済的、精神的な重荷は耐え忍び難いものとなりました。
 チマッティ神父にはサレジオ会の長上として、40人ぐらいの会員すべての、特に精神的な安定の配慮が務めとなりました。
 チマッティ神父はサレジオ会員に何を勧めていたのでしょうか。
 戦争の始まりに、このことばで励ましました。
 「恐れることはない。ドン・ボスコがトリノでコレラが流行した時のことを思い出しなさい。 不幸から守られるために、首に扶助者聖母のメダイを着けること、マリア様に毎日三つの Ave Maria を唱えること」
 またサレジオ会員一人一人に手紙を送って、このことばを書いていました。
 「精神の落ち着きを保ち、出来る仕事を続け、皆に親切で、都教区者と良い関係を保つこと。 書くこと、また話すことに関して賢明に振舞うように主の御手に自分を委ねること。 そうすれば、何が起こっても、聖母とドン・ボスコの御保護を受けることになるでしょう」



   東京大空襲    


 東京大空襲の時に、このことばを会員にかけていました。
 「主の信頼を持ち続けましょう。今までサレジオ会員は神様から見守られてきたのではないでしょうか。 必要なことに不足する時はなかっただけでなく、今も不足していません。 その愛に応えるために、今この時にこそ主に信頼を置きながら自分をささげるようにしましょう。み旨のままに」
 このことばにドン・ボスコと聖フランシスコ・サレジオの精神が如何にチマッティ神父の心に浸透しているかが見受けられます。 



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 2月 6日


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