第2次太平洋戦争後とチマッティ神父   




日本人の若い会員が戦争の間に亡くなりました

日本人の若い会員が戦争の間に亡くなりました

1946年の都城教会

1946年の都城教会



   戦争が終わりました  


 1945年に日本では8年間も続いた戦争が終わりました。日本の天皇陛下は日本の長い戦闘の後、 広島と長崎での原子爆弾の後に、8月15日にラジオで降伏の宣言をなさいました。日本の市民は苦しい生活を送ることになりました。
 戦争の間に多くの人がなくなり、住む家をなくし、あらゆる工場での仕事が停止され、郵便が止まり、 電車は動いてもまだ所々に線路がなくて、生活には必要な食べ物などが不足していました。 外国人の旅行が禁じられ、一般的に日本人は意気消沈の有様に落ちていました。



   実践に移すべき新しい計画を打ち明けました    


 チマッティ神父は66歳になり年齢の重荷を外に出していませんでしたが、このようなことばを口にしていました。
 「私の健康は良いですが年取って来ました。日本では、50歳になれば、より新鮮で若い人に責任を譲るのは良いことである、と言われます」
 しかし、戦争が終わってすぐに、日本のサレジオ会員に実践に移すべき新しい計画を打ち明けました。
 「前の仕事の場に戻ること、委ねられた信徒の生活設計を助けること、協力者との縁を新たにすること、 印刷に力を注ぐこと、新状況から生じた社会的な身分を利用して言葉少なく善を手一杯行うこと」
 日本でのサレジオ会事業は、別府教会を除いて、九州と東京の宣教師レジデンスは損害を受け、立て直す状態にありました。 日本人の若い会員は戦争の間にある者は亡くなり、ある者は負傷していました。外国人の会員は一時的に監禁されましたが、 皆、無事に戻ることが出来ました。さらに、1945年12月に6人の神学生が司祭叙階を受けることができました。



   皆に手紙を出し、励ましのことばをかけました    


 チマッティ神父は皆に手紙を出し、次のような励ましのことばをかけました。
 「建物は壊れましたが会員は無事です。神に感謝。一致して事業の物的、霊的再建のために力を合わせましょう。 過去を不平の的とせずに、喜びと落ち着きをもって人を助け、神の栄光のために働くようにしましょう。 ドン・ボスコの精神に従って、すべての人、特に若者に対して全力を尽くすようにしましょう」
 1945年の10月から、チマッティ神父は、管区長としてサレジオ会の教会を訪問し、建物の再建の仕事に会員の労働力を差し向けました。
 実際に1年間の努力で、宣教師の滞在するところを立て直しました。1946年12月に会員に手紙を出して次のことばを書きました。
 「都城教会の立て直しを終えて、建て直しの仕事は完成に至りました。一年間でこれが出来たのは神の不思議なわざのためであります。 これから私達の心の立て直しに力を注ぎましょう」
 1945年の終わりごろ、宮崎・大分教区は鹿児島教区から福岡教区に移ることになり、福岡教区の司教の意向に基づいて、 チマッティ神父とサレジオ会員は、宮崎と大分に戻り、その司牧に専念することが出来るようになりました。 4年ぶりのことでありましたが、これは信徒やサレジオ会員にとっても大喜びとなりました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 4月 6日


  チマッティ神父の生涯目次ページへ