宣教師としてのチマッティ神父   



1926年1月末上海にて

1926年1月末上海にて―最初の宣教師達―



   ほほ笑みながら新しい宣教地に赴いた   


 1925年は、ドン・ボスコが最初の宣教師のグループを派遣した1875年からちょうど50周年目にあたり、 教皇ピオ11世は、サレジオ会に日本での宣教を呼びかけた。日本での新しい宣教団の団長として、 ヴァルサリチェの校長チマッティ師が選ばれた。
 若い時から彼は宣教地に行きたいとの希望を示し、何回も願書を提出していた。その後、長い間、 宣教師になりたいと望んでいたが、福者フィリッポ・リナルディ神父からの突然の任命に驚いた。 しかし、心の準備はすでにできていた。その時、彼は46歳。学校内外で評判がよく、学生や卒業生に非常に慕われていた。 総長の呼びかけに神のみ旨を見いだし、それを喜んで受け入れた。教皇ピオ11世への特別謁見を許され、 教皇の言葉に励まされて、ほほ笑みながら新しい宣教地に赴いた。 多くの人は、それが彼にとって大きな犠牲であることをわかっていたが、英雄的で、謙遜な従順は彼の人生の特徴でもあった。



   ひげの生えた生徒たち    


 司祭6名、修道士3名の宣教師一行は、42日の航海の後、1926年2月8日に日本に着き、 1週間後、新しい宣教地である宮崎に入った。早速、日本語の勉強に取りかかり、チマッティ師が言うように「ひげの生えた9名の生徒たち」になった。 ひげが早く伸びるように、日本語も早く習得したいと思っていた。 5月になって、扶助者聖母を誉めたたえるため、信者にノヴェナ(9日間)の説教を行うことにした。 チマッティ師を始め、皆が原稿を書き、先生に手伝ってもらって苦労しながらそれを日本語に訳し、暗記し、毎晩、一人ずつ発表した。 信者たちはとても驚き、ていねいに「おめでとう、たいへん結構でした」と言いながらも、 「お聖堂の中では雄弁家だが、お聖堂の外では一言も話せない不思議な人たちですね」と感嘆した。
 日本語は西洋と全く異なる文化やメンタリティーを反映しており、西洋人にとって非常に難しい言葉である。 「40歳を超えると、日本語を覚えるのは無理だ」と長年日本の宣教司牧にあたっていたフランス人の宣教師は言っていた。 チマッティ師はすでに46歳だったが、落胆しなかった。他の人と一緒に日本語の授業に参加し、1年で大変な苦労をしながらも、 小学校の教科書を一通り勉強した。聖フランシスコ・ザビエルのように、子どもに戻り、たどたどしく話すという屈辱の体験もした。 その後、働き始めたので、正式な勉強は小学校5年生程度までで終わった。



   僕たちはチマッティ神父様のお話のほうをもっと喜んで聞きます    


 だが、チマッティ師は1年間しか日本語の勉強をしなかったわけではなく、その後も、福音宣教や、長上としての仕事に追われながらも、 晩年まで勉強し続けた。チマッティ師が何度も辞書を引いたり、小学校の教科書を読み直したりするのを、若い会員は、感激しながら見たものである。 しかし、一所懸命努力したにもかかわらず、日本語をマスターするまでにはいたらなかった。 それでも、人々は彼の話すことをよく理解できたし、喜んで彼の話を聞いていた。思っていることをうまく表現できなかったときには、 彼独特のジェスチャーで補っていた。言葉でよりも、心で語っていた。宮崎の子どもたちは若い宣教師の私たちにこう言っていた。
 「若い神父様がたは、チマッティ神父様より日本語が上手だけど、僕たちはチマッティ神父様のお話のほうをもっと喜んで聞きます。」
                                      「チマッティ神父と歩んだ日々」  レナート・タシナリ より



                                                  チマッティ資料館
                                                  マルシリオ神父
                                                 令和 7年 6月 6日                                                   




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