サレジオ修道会の宣教団が日本に派遣されたきっかっけ  




手紙



  ジャン・クロード・コンバス司教  


 サレジオ会の宣教師団が初めて日本に派遣されたのは1925年です。
 実は長崎と全九州の司教であったジャン・クロード・コンバス司教が、バチカンの布教聖省宛てに、1922年から何回も手紙を送り、自分の大きな教区で働く修道会宣教師の派遣を願っていました。
 布教の地域として大分・宮崎地方を指摘していました。ここではもうすでに、パリミッション会の3人の宣教師が働いており、150万人の人口の中で300人のカトリック信者を世話していました。



  サレジオ修道会の新しい総会長フィリッポ・リナルディ神父    


 1923年の末頃、バチカンの布教聖省からサレジオ修道会の新しい総会長フィリッポ・リナルディ神父宛てに、サレジオ会員から宣教団をできるだけ早く結成して、日本の長崎教区に送ってくれませんか、という願いが届きました。 この書面には、「日本の文化レベルは高いので、派遣する宣教師は高等教育の施設を指導できること」との要望も記されていました。
 リナルディ総会長は聖座の招きと指摘を受け入れ、サレジオ会員の宣教団をつくるためにサレジオ会支部を訪問し始めました。そして、その実現の年を1925年の終わりとしました。
 この年が選ばれた理由は、1925年はサレジオ会創立者ドン・ボスコが、宣教地に最初の宣教団を派遣してから50周年(1875−1925)に当たっていたからであり、さらに、派遣にあたって、十分な準備を行いたかったからです。 そのため、1924年の夏にリナルディ総会長は、中国サレジオ会の長上であったイグナシオ・カナゼイ神父に、日本という国の現状を調べてもらうために、日本を訪問してもらいました。
 その報告によると、「日本は、特に東京と横浜市は1923年の関東大震災のために、荒廃した状態にあるが、人々は中国と比較して割合に裕福で、セッセと働き、福音宣教の面から見て、希望が持てると思われる。 九州地方、特に宮崎市は遅れていて貧しい地方であると判断された」。



  トリノ・ヴァルサリチェ学院の院長であったヴィンチェンツォ・チマッティ神父    


 丁度この時に、トリノ・ヴァルサリチェ学院の院長であったヴィンチェンツォ・チマッティ神父の手紙がリナルディ総会長の机に届きました。
 「私のために宣教地で一番貧しく、苦労の多い、見放された場所を準備して下さい」という熱烈な願いでした。
 こういう内容の手紙は初めてではなかったが、チマッティ神父はこの時、特別の状況に置かれていました。彼は30年間もヴァルサリチェ学院で師範学校の教授として勤めていましたが、イタリアの文部省の新しい規則のため、 師範学校を閉じるか、もしくは別の場所に移すか、というヴァルサリチェの新しい方向付けの問題に責められていました。
 やはりリナルディ総会長は、それを御摂理の恵みと見なして、チマッティ神父を日本の宣教師団の団長として、彼に目を向けるようになりました。実際に1925年6月18日、御心の祭日の前日に、チマッティ神父は50周年の宣教師団の団長として選ばれたとの辞令を手にしました。
 この宣教師団は9人のメンバーで出来ていました。6人はサレジオ会司祭で、3人はサレジオ会修道士でした。司祭たちはヴィンチェンツォ・チマッティ(46歳、団長)、ジョバンニ・タングイ−(42歳、フランス人、スペインのサレジオから)、 アントニオ・カヴォリ(38歳、教区司祭、兵隊のチャプレンからサレジオ会入会)、ペトロ・ピアチェンツァ(ヴァルサリチェでチマッティ神父の昔の生徒)、そしてまだ30代になっていなかったレオネ・リヴィアベラとアンジェロ・マルジャリア。 修道士はルイジ・グアスキノと、アルフォンソ・メルリノ、そしてジョバンニ・デ・マティアでした。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 7月 6日


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