3か所の違った場所で働き始めました
9人のサレジオ会員は、日本語の1年間の勉強の後、1927年に、福音宣教活動に直接励むため、別れて働くようになりました。
日本語と日本の慣習をさほどものにしていなかったのですが、チマッティ神父のことばを信じて
「私達の出来ないことをマリアさまとドン・ボスコがしてくださるでしょう」と、3か所の違った場所で働き始めました。
別れる前に、チマッティ神父は会員の状況と日本での宣教の困難を思い、皆に一つの目標を掲げました。
「まず、自分自身への配慮、若者とその家族のために力を注ぐ、日本語などのことで助けを与えて下さる方との密な関係をつくる、
最後に勇気を振るって出向いて行くこと」
それぞれの宣教
★ 1927年2月1日
チマッティ神父は長崎の司教からサレジオ会宣教活動の責任者に選ばれ、宮崎教会の主任司祭になりました。
彼の協力者として、アントニオ・カボリ神父とアロイジオ・グアスキノ修道士が決められました。
当時は、宮崎教会に200人ぐらいの信徒がいました。チマッティ神父はこのことについて、
自分のノートにこのように書き記しています。
「ドン・ボスコの教え、サレジオ会の精神に乗っ取って、福音宣教に励むようにしましょう」
★ 1927年2月18日
チマッティ神父はサレジオ会宣教師の中でまた3人を選んで、中津教会につれて行きました。
その名はペトロ・ピアチェンツァ神父、レオネ・リビアベッラ神父とアルフォンソ・メルリノ修道士です。
主任司祭はピアチェンツァ神父でした。
彼らは小さなチャペルで神に感謝を歌い、その町で福音の種を蒔き始めました。その儀式に6人の信徒が参加しました。
キリシタン時代には、イエズス会の働きによって、この地方に7万人のキリスト者がいました。
★ 1927年3月9日
この日に、サレジオ修道会で聖ドメニコ・サビオの死が記念されます。
この日にチマッティ神父は残っていたサレジオ会員の3人を大分教会に案内して、彼らに昔でいう豊後(ぶんご)の地の福音宣教を任命しました。
この3人の名前は主任としてヨハネ・タングイー神父、マルジャリア神父、デ・マティア修道士です。
皆が驚いたことには、マルジャリア神父はドメニコ・サビオの御像を出し、宣教活動をその聖人の保護の下に置かれるようにしたのでした。
大分教会は聖フランシスコ・ザビエルと大友義鎮宗麟(おおともよししげそうりん)の思い出に満ちています。
フランシスコは大名に歓迎され、中国に渡る前に、この町で46日間を過ごし、600人ぐらいに洗礼をさずけました。
日本の宮崎・大分の福音宣教
このようにして、チマッティ神父の指導の下で、サレジオ会宣教師の小さなグループは他の修道会に加わって、
日本の宮崎・大分の福音宣教に務め始めました。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 3年 12月 6日
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