司祭職を目指すチマッティ神学生  




院長に向かって



  大忙しのチマッティ神学生  


 チマッティ神学生は神学生として、ほとんど10年間という長い期間をトリノのヴァルサリチェで過ごしました。
 神学生とは神学院内で養成と司祭にかかわる勉学を身に付ける人のことでありますが、チマッティの場合はこれまでもありましたが、それに加わえられたものが信じられないほど多かったのです。 ヴァルサリチェ学院での授業と同時に、先生の資格を取得するためにパルマとトリノ大学へ通わなければならず、大変忙しい時を過ごしました。
 ヴァルサリチェとはサレジオ会の養成支部で、師範学校、高等学校でもありました。この支部では、また司祭になる人のために哲学と神学も教えられていました。
 チマッティは神学生として自分の研究をし、また学校の方では先生不足のために、師範学校でイタリア語・数学・物理学・ラテン語を、高等学校では化学を、そしてどんなところでも音楽を教えていました。 まだ大学へ行っていない頃のチマッティ神学生について、一人の昔の生徒は次のことばを書いています。
 「若きチマッティ先生の授業はいつも完璧に準備されていました。始まりと終わりの時間を守っていました。決していらいらせず晴れやかに、明快に教えていました。彼の授業時間は他の授業の退屈を忘れさせるものでありました」。



  同時に、先生、大学生、神学生    


 1899年にヴァルサリチェ学院は学校として国から正式に認可されました。この年から学院の学校で教えるためには資格を持たなければならないことになりました。
 チマッティ神学生は20歳になっていて、あらゆる科目を教えていましたが、資格を持っていませんでした。 そのため、1899年の夏休みの間に3カ月ばかり私的にパルマ音楽大学で勉強し、1900年7月7日に受験して音楽コーラス指導の資格を取りました。
 この日から「Maestro =先生」の名称で、あたかも唯一の先生であるかのように、呼ばれるようになりました。これと同時に、同年1899年に、自然科学の資格を取得するためにトリノ大学に入学しました。 毎朝早いミサにあずかり、そして毎日トリノの市場に行っていた手押し車に運んでもらって、大学受業に通うようになりました。4年間も、午後はヴァルサリチェ学院で教えながら、朝は大学で化学研究と実験に努めました。 1903年7月15日に大学の試験を受けて、自然科学の博士となりました。
 これを終えた後、司祭になるために落ち着いて研究しようと思っていたのですが、師範学校の教育学の先生が教えられなくなってしまいました。
 チマッティ先生は長上たちから、またしてもトリノ大学に通って教育学の資格を取りなさいと申し付けられました。 チマッティ神学生はもちろんそれを素直に受け入れましたが、同時に、先生、大学生になり、それに神学生としても司祭になる準備を怠りませんでした。



  司祭叙階    


 26歳になって、1905年3月18日にジョバンニ・カリエロ司教様から司祭叙階を授かりました。
 叙階式にはサレジオ会総会長であったミカエル・ルア神父もあずかり、ミカエル・ルア神父から「世の光、地の塩でありなさい」とはなむけのことばを受取りました。
 この日はチマッティ神父にとって忘れられない日となり、神父になった先生チマッティは多くのおめでたいことばをかけられました。その中の二つだけを引用します。彼の生徒たちのことばです。
 「サレジオ会の中でチマッティ神父のような先生を見たことがありません」
 「チマッティ神父はドン・ボスコの写しであるミカエル・ルア総会長の写しになっています」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 5月 6日


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