後継者を募り養成する
チマッティ神父は全生涯を司祭・修道者の招命と養成のためにささげたと言っても過言ではありません。
イタリアでは神学生の時から46歳までヴァルサリチェ学院で先生・校長・院長として、特にサレジオ会神学生のために尽くしたのです。
日本に来られてから宮崎地域宣教の責任を負い、すぐに外国の神学生、宣教師の派遣を願うとともに、日本の男女修道会の志願者を募り始めたのです。
外国人宣教師は福音宣教に専念して、キリスト教の種を蒔くので良いのですが、日本の布教の責任は日本人が負わなければならない
と言う考えを持っていたからです。それだけではなく、当時の日本の状況はそれを促していました。
実際に1940年まで日本は軍国主義の精神に支配されていて、外国人宣教師に対して偏見があり、
彼らは監視されていたばかりでなく、
彼らと関係する日本人でさえ変な目で見られていたのです。日本で教会・福祉施設・学校を立てても、
外国人であるため、いつ追放されるかわからない状況でした。ですから宣教の使命が、日本人から日本人へ受け継がれるよう後継者を募り、
養成することは事業の存続に関わるものでした。
チマッティ神父はサレジオ会管区長としてサレジオ会の将来を確保する責任を持ち、
宮崎知牧の教区長として各教会の担当司祭を擁護する務めを担っていました。
そして、宣教師たちに次のようなメッセージを送っていました。
「最近の出来事を見ると、宣教使命の継続のために、私達を助け、私達に変わって努める、この地の者を募り、
養成することが大事です。教会に良き司祭、福音を教える良きカテェキスタ、修道会には良い会員が必要です。
この地の招命のために<祈り、犠牲、生活のあかし>が必須条件です」
修道女会
宮崎市内で扶助者聖母修道会が、10年間ぐらいの間、幼稚園とオラトリオで働いていました。
チマッティ神父は彼女らが来日する前に、シスターになりたい志願者を準備していました。
この会の最初の日本人のシスターは彼が養成しました。彼女が宮崎から出た時には、彼は大変悲しんだものです。
宮崎牧地では身寄りのない高齢者と子供たちのために救護院が作られていました。
チマッティ神父はそこで働いていた30人のスタッフを養成し、そのグループから何人かを選んで、
1937年8月28日に宮崎カリタス修道女会を開始させたのです。
小神学校
チマッティ神父は、初め、宮崎知牧の小神学校を特別の配慮の対象としました。
1933年にそれを中津から宮崎市に移し、その建物を自身で直接、監督して建設させました。小学校の卒業生を募り、
それが48人になった時もありました。5年間の勉強期間中にラテン語と宗教を教えていました。
家庭的な雰囲気、真面目な勉強、スポーツ、演劇、ブラスバンド。卒業の時に、司祭になるか修道者になるか、
普通の生活を送るかは、自由に選択することができました。頭が優秀でない人も、小神学校に入れました。
「ミサを捧げることは地上で一番大きな恵みで、優れた使徒職であり、一番美しい説教である」と。
チマッティ神父は小神学校で「生きている聖人」と名付けられていました。
さて、その小神学校は1942年まで続いたのですが、その結果はどうであったでしょうか。
19人の司祭(10人は教区司祭)、(9人は修道司祭)3人の修道士が出ました。1939年に宮崎知牧の最初の司祭の叙階式があり、
チマッティ神父は叙階式中、また初ミサの間中、感激の余りにずっと泣いていたのです。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 4年 10月 6日
チマッティ神父の生涯目次ページへ
|