扶助者聖母修道女会
チマッティ神父は1926年に来日し、宮崎で福音宣教を始めました。まもなく教会の宣教活動のためには修道者のシスターズの助けが必要だと感じました。
そこで、ドン・ボスコがイタリアで設立した扶助者聖母修道女会に頼み、日本の福音宣教のためにシスターズを派遣してもらったのです。
1929年の終わり頃に、シスターズ・レティシャ・ベリアッティを団長に、6人のシスターズが宮崎に到着しました。
彼女たちの務めは教会での女の子たちの世話、オラトリオ。そして日本語をちょっとマスターしてからは、幼稚園での仕事などを、だんだんに行うようになりました。
チマッティ神父は、シスターズたちを迎えるために場所を用意し、何度も訪ね、励まし、彼女たちに不自由がないように自らの犠牲を惜しまず、
物的、霊的ニーズに応えようとしました。チマッティ神父は扶助者聖母会の総会長にこのような手紙を出しています。
「私は日本に派遣されたシスターズたちのために、リナルディ神父のように努めたいのです。ご安心ください。
心にそういう気持ちをもっているのですが、本当にできるのでしょうか。」(リナルディ神父は扶助者聖母会にとても広い心を示した方です)。
扶助者聖母修道女会のシスターズたちは宮崎でいろいろな活動をし、8年後に別府へ行きました。チマッティ神父は個人的な日記にその時の気持ちを書いています。
「今日は、扶助者聖母のシスターズたちが実りの多かった宮崎から本当に離れて行ってしまう日です。あんなに献身的に福音宣教に専念していたのに!
心が痛みますが、感謝する他ありません。神のみ旨が果たされますように」。
宮崎カリタス修道女会
当時、市の高齢者と親のいない子どもたちのために宮崎教会が世話をし、救護院が開かれました。
宮崎教会の主任司祭アントニオ・カヴォリ神父の下で働いている若い女性たちが、救護院を助けるために来ていました。
その女性たちのグループはビンチェンティオ・ア・パウリの宗教団体に所属していました。彼女たちは救護院に通い、高齢者や赤ちゃんたちを世話していましたが、
自分たちが修道者やシスターズになることは夢にも考えていませんでした。1933年7月19日(ビンチェンティオ・ア・パウリの祝日に当たり)、
宮崎サレジオの日記にこの言葉があります。
「この日に、チマッティ神父は救護院で働いている女性たちを集め、3日間の黙想会の話に、宮崎に於ける新しい修道会の必要に触れたのです」。
その時(1933-34年)にカヴォリ神父はイタリアに滞在していたが、1934年にカヴォリ神父が戻った時、チマッティ神父は宮崎の教区長として彼にその計画を打ち明けました。
カヴォリ神父はその勤めを与えられ、実行するように促されたのです。
1937年8月28日、宮崎教会でカヴォリ神父の立ち会いのもと、その女性たちのグループの中から5人が修道者・シスターズになるための着衣式が教区長チマッティ神父の司式で行われました。
この5人は宮崎カリタス修道女会、現在のイエスのカリタス修道会の礎となりました。
チマッティ資料館
マルシリオ神父
令和 7年 8月 6日
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