生まれた村
ヴィンチェンツォ・チマッティはイタリア出身の神父でした。
イタリアには、北・中央・南地方があります。チマッティ神父の出身はイタリア中央の北部で、アドリア海に沿うラヴェンナとリミニの間にあるファエンツァという市でした。
この町にたどり着くためにはラモネ川を通ると、やがて町の郊外デュンベッコ村に着きます。
当時は人口2400人の村で、貧しく生活の苦しい村で、あばら家が多くありました。中心に聖アノトニノ教会があり、大きな運動場がありました。
第2世界大戦のさなかにこれらの家は全部破壊されてしまいました。建て直された今は、ファエンツァ市の一部分となっていますが、その時を思いださせるのは残った教会と運動場だけです。
昔のデュベッコ村に住んでいた人は一日の労働で生活し、ここにチマッティ家の住まいもありました。チマッティ家は「パデエス(−苦しむ人の家−)」と言うあだ名で知られ、人の助けを必要とする家族と見なされていました。
家 族
チマッティ神父のお父さんの名前はヤコブで、お母さんはローザと呼んでいました。二人ともファエンツァ地方の者で、仕事の関係で知り合うようになり、
彼が23歳、彼女が21歳の時、1859年11月10日に結婚しました。
ヤコブは日雇いの仕事で、ローザは仕立屋の仕事をして家族を支え、年を経るにつれて、神の祝福に恵まれ、6人の子供を授かりました。
1861年6月6日に長女「サンティナ」が誕生しました。名前の意味は「聖なる者」で、サンティナは今、名前の通りに教会から「福者」と認められています。
彼女は健康に恵まれ、28歳まで家庭に残り、次々に生まれてくる兄弟の世話をしてお母さんの大事な助けとなりました。
28歳の時に看護婦の修道会に入り、そこで病人に奉仕して84歳の寿命を全うしました。
1864年4月27日に二男の「ドメニコ」が生まれました。6歳になって神様に召され、花のように短い人生を閉じました。
1867年1月25日に、「アロイジオ」が誕生しました。彼はサレジオ会修道士になり、宣教師として南米ペルーで働いて56歳でなくなりました。
1869年9月19日に「パウロ」が誕生しましたが僅か7歳で天に召されました。
1876年に「アントニオ」が生まれ、1歳にならないうちに召されました。
1879年7月15日に、家族がボルゴ・カサノヴァに移り住んでいる時に、6番目として、「ヴィンチェンツォ」が生まれ、
同日にファエンツァの大聖堂で洗礼を授けられました。聖人たちに守られて長生きするようにと、三つの名も与えられました。
それらは「ヴィンチェンツォ、ヘンリ、ガスパール」です。
1882年4月4日に、46歳の若さでお父さんがなくなりました。この時にお母さんは44歳、姉は19歳、アロイジオ15歳で、
末っ子のヴィンチェンツォはまだ3歳になっていませんでした。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 3年 1月 6日
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