ドン・ボスコをご覧なさい
ヴィンチェンツォは1882年5月13日、まだ3歳になっていない時に、ファエンツァを訪れていたドン・ボスコを見ました。
会衆の中でドン・ボスコの話を聴いていたお母さんはヴィンチェンツォを持ち上げて「ドン・ボスコをご覧なさい」と言いました。
実はこの幼い子はその時から、いのちの終わりまでドン・ボスコに見とれて、その子供となりました。
ヴィンチェンツォは町の幼稚園と小学校に二年生まで通いました。その合間にお兄さんに連れられて、サレジオオラトリオに遊びに行き、
幼稚園で学んだ歌を歌っていました。ヴィンセチェンツォは幼稚園の時からソプラノの美しい声と演劇の上手なことに恵まれました。
お母さんとお姉さんの導きを受けて7歳の時に初聖体と堅信の秘跡を授かりました。9歳になる前までに、お父さんがなくなってしまったので、
完全にお母さんの教育を受けて育ちました。晩年のチマッティ神父のことばによると、その教育はとてもしっかりしたものでありました。
「神に対する祈りを唱えること」、「責任を持って仕事と勉強を果たすこと」、「食事について文句を言わないこと」、「夜は早寝、朝は早起きすること」。
サレジオ私立学校に入る
小学校3年生になってファエンツァのサレジオ私立学校に移り、ここで1888年まで、7年間も過ごしました。貧しい家庭に育って、
お金のかかるサレジオ私立学校にどうやって入ることが出来たのでしょうか。オラトリオのリナルディ院長がその子の良さと才能を見て、
お母さんを助けながら、サレジオ学校に誘ったに違いありません。ヴィンチェンツォは16歳までのこの時期に、基礎教育の習得に専念し、
ピアノとオルガンを弾くことを学び、教会の聖歌隊でソプラノの声を磨いて、あらゆる催しで演奏することによって自分の才能を発揮するようになりました。
一人の神父先生はこのように証言しています「ヴィンチェンツォは成績の優秀な者であったばかりでなく、すべての面で模範的な者でありました」。
同級生は、彼が皆の友達であり、特に音楽と声の美しさで皆のアイドルであったと思い出しています。同級生の一人は次のことばを書き残しています。
「チマッティは歌う時に、まるで別の世界に持ち上げられるようでした。彼の声はソプラの声で、澄み切った声、響きの良い声、
自然にシーフラットまで届き、天使の声でありました。聞いていた人たちは感動し涙をこぼしていました。時々オルガンとピアノを弾きながら歌っていました」。
ファエンツァ、トリノ、ボロニア、リミニから来る人はヴィンチェンツォ・チマッティの歌を聞くために駆けつけていました。
ボロニアの合唱団の団長はチマッティの声を聞いて、自分のグループに入ったら有名な俳優になれる事を約束したが、彼は疑うことなく、
こう返事をしました。「嬉しい提案を感謝します。でも私は随分前から主に自分の声をささげる約束をしました。私はドン・ボスコの修道会に入会して司祭になるつもりであります」。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 3年 2月 6日
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