修道者の養成者であったチマッティ神父  




最初の日本人修練者

最初の日本人修練者

宮崎カリタス会の最初の着衣式

宮崎カリタス会の最初の着衣式



  自分の使命を分かち合う人  


 チマッティ神父は司祭・修道者の養成に生涯をおささげしました。
 イタリアのヴァルサリチェでだけでなく、来日してすぐ宣教の開始から、自分の使命を分かち合う人を探し始めました。
 1937年に、チマッティ神父は日本での10年間の宣教活動の実りを見ることが出来ました。サレジオ会の働きは新しい信者をもたらしたばかりでなく、 修道者になりたい若者、男性も女性も次々に出るようになりました。宮崎の小神学校が若い男性で一杯になり、 宮崎救護院で5年間もの間、奉仕で協力していた若い女性たちも修道会に入る話を口にし始めました。



  カヴォリ神父が書き残した自叙伝のことば    


 チマッティ神父は宮崎救護院を宮崎教会の主任司祭であったカヴォリ神父に任せていたので、 カヴォリ神父が書き残した自叙伝のことばを紹介します。
 「1937年。やがて日本の政治情勢は日を追って帝国主義政策へと傾倒してゆき、外国人宣教師はスパイと見なされ 警察から尾行されるようになっていきました。
 私のよき理解者であったチマッティ師は、自制を考え、救護院事業の継続のため女子修道会を創立することを勧めて下さいました。 私は師の申し出を聞いて『私には到底そんなことは出来ません』、ということをまくし立てました。その後まもなく、師は再びその話を持ち出し、 彼の持って生まれた楽観主義で私を励ますのでした。
 そして、三度同じことを勧められた私は、修道者としてそれ以上拒否することが出来ず、頭を下げ、 聖ペトロのことばを借りて『おことばですから、網を下ろしてみよう』と答え、その勧めに従いました。
 様々な手続きを経て、その新しい修道会は1937年8月15日に認可されました。 時の教皇ピオ11世は、布教地の教区長にあてた回勅『レールム・エクレジエ』の中で、『男子・女子の邦人修道会を設立することを、 あなたたちの任務の大事な仕事の一つと考えなくてなりません』と進言しました。」       



  邦人のカリタス修道女会を創立    


 実際に宮崎知牧区の教区長であったチマッティ神父は新しい修道会創立の許可を聖座聖省から受け、自分の権限で次の文書を持って公布しました。
 「選挙聖省が1937年6月16日、当宮崎知牧区において邦人のカリタス修道女会を創立する許可を与えたことに基づいて、 また、何年も前から孤児や高齢者の宮崎救護院に於いて共同生活を送っている女性たちの宗教的な養成を担当しているカヴォリ神父の願いもあって、 評議会の意見を聞いた上で、教会法492条の1に従って、自分の権限で教区立修道会として、宮崎在住の日本カリタス修道女会を正式に設立する。     チマッティ教区長 」
 そしてチマッティ神父は1937年8月31日日付で、サレジオ会総会長ペトロ・リカルドネ神父への報告の手紙にこのように書きました。
 「教皇ピオ11世の勧めの通り、新しい女子修道会を設立することが出来たことは皆にとって大きな喜びでありました。 邦人の姉妹たちの模範と行いは日本での使徒職の実りのために欠くべからざるものであります。 新しい修道会の目的は身体的・精神的な慈善事業による信仰普及のことであります。時間が経つにつれて、日本での使徒職に実り多い修道会となるでしょう」
 とても最近ですが、聖座は<イエススのカリタス修道女会>の創立者として、カヴォリ神父と共にチマッティ神父をも認めることにしました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 9月 6日


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