(29) 日本音楽の特徴、音楽の指導、日本人の特徴

宮崎1926年7月25日
Amerio Francoアメリオ・フランコ神学生へ

親愛なるフランコ君

私のことを思い出してくれて、君の善意にどう感謝すればいいのだろうか。日々、君とご家族のことを思い出すことによって感謝しよう(実際、そうしているよ)。わがフランコ君、神様は、私に優し過ぎる心を与えてくださったのだ。自分でもそう感じる。一旦誰かの魂に入ってしまったら、心身ともそこから抜け出せなくなるのだよ。君と君の聖なる家族に対してもそうだ。日々、主に感謝しよう!

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音楽の五線紙を送ってくれてありがとう。大部分、君たちのために埋め尽くすつもりだ。今は、日本的音楽に取り組んでいる。もう幾つも貯めてあるが、君たちにわからないから、送っても役立たないだろう。この次、ヴァルサリチェの仲間たちがまた手紙をくれる時、日本の美しい歌を送ろう。共同体に送った手紙にも添付したから、見てほしい。日本人は、寂しい、短調階の曲を好む。学校では音楽は必須だが、一部の独自の歌の他、ドイツやフランスのメロディーに日本の歌詞をつけた幾つかの歌集がある。イタリアの音楽は好きだと言う。すぐに覚えてしまう。

被昇天祭のため、信者一同で歌ミサ〔訳者注 ここにグレゴリオ聖歌のミサ〈cum jubilo〉の初の旋律を記す〕、また日本語の賛美歌を歌わせよう、と思っている。日本人は、音楽に夢中になり、仕事をしながらも歌っている。子守りをする人も、子どもをあやしながらきれいな歌を口ずさむ。ちょうど昨日、教会の池の前で若い女性が同じアリアを何回も繰り返しながら、自分の宝である子を休ませるようにしていた。〔訳者注 旋律の五線が続く〕

 

A

我々の宣教地のために土曜日の祈りを捧げてくれてありがとう。この土地の特徴は、どう考えても想像できないだろう。次のような特徴を合わせてみてごらん。キリスト教ではない教えと、経済、社会、政治的繁栄と。子どもたちの自由な振る舞い(家の中の子どもは王様であり、イタリアで隠そうとすることを何でも見せる)、慎みある美しい着物と、完全に自由な服装と(時には、まるでマットグロッソにいるような感じがする)〔訳者注 チマッティ神父の仲間がいるブラジルの原始林を指す〕。国民の教養の高い水準と、全く無知な面である。思いつくことを書き続ければ、明日まで続けられるほどだ。この国民は、逆説的であり、変と思われるかもしれないが、同時に正確で、細かく、なんというか……まあ、どうなるかを見ていよう。本当に祈ってもらいたい。

 

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音楽に関しては、私の経験では、今、そちらの学校の事情を考えて、もっと良い要員が来ないかぎり、君がしているようにするのが一番良い。少ない曲を、よくやること。(私は、ここの子どもたちを相手に同じことを体験している)。良いプログラムを上手にやることだ。私の作曲したものに関しては、気にしないで、何でも自由に使っても結構だ。(……)


君の作曲は、素晴らしい。でも、傲慢になるわけはない。クラシック音楽やモダンな音楽と比較してみれば、よくわかるだろう。芸名は、自由に「ヘンリ」を使っても結構だよ〔訳者注 ヘンリとは、チマッティ神父のミドルネームEnricoのこと。初期の頃、彼は芸名としてよく使っていた〕。私にとってそれは名誉となる。

一般の人の音楽的趣味については、こう思いなさい。多くの人は、中身よりも作者の名を追っている。音楽を聴くと、まず、「誰の作品ですか」と聞く。そして、有名な人の名前が出れば……、ああ、素晴らしい! と言う。(……)

君は、自分には能力がない、怠け者だなど、と考えてはならない。自分の知っていること、やれることをやったなら、あとは恐れることはない。君の心の状態についても、同じことだ。

読書としては、聖フランシスコ・サレジオの手紙を勧める。(……)それを読めば、君が私に書いた悲観的な考え方の無駄なことがわかる。何を言っているのか。罪びと、傲慢、感情的、役立たずのサレジオ会員だ、とは! 神様はそのことをご存じではない、とでも思っているのか。我々がこの世から離れたのも、そのためではないか。神に対して信仰の薄い者よ、元気を出せ。君は、自分を信じ過ぎているのだ。神に委ねなさい。これに関して、頭で理解すること、哲学することなんかは要らない。知っていることを、その場で、できる方法で、神様を愛するために、することだけだよ。他のことは、全部誘惑、不信、無駄な計算に過ぎない。明るく前進、前進、前進しなさい。

とにかく、フランコ君、勇気を出そう。仕事をしながら、聖人になるように努めるのだ。そのためにこそ、ドン・ボスコは君を自分の側に置いたのだ〔訳者注 当時、ヴァルサリチェにドン・ボスコのお墓、ご遺体があったことを指している〕。わかったかい。ドン・ボスコは、君にこう言っている。「フランコ君を私の側に置いたのは、他の支部に行けば、より大きな危険に遭ったからである。ヴァルサリチェなら、仕事、快活さ、私の子らを喜ばせる、信心生活を実行することによって、聖性を目指すことができるからである」と。

わかったね。おばかちゃん(どうか怒らないでね!)。それでも恐れるのか。さあ、ピオヴァの林間学校〔訳者注 チマッティ神父も夏休みによく行っていた場所〕から帰ってきたら、ドン・ボスコのところへ行って、私に代わってキスをして感謝しなさい。

お父さん、お母さん、ヴァルサリチェにいたお兄さんにも心からよろしく。ピアニストや合唱団の皆さんにも。そして、君には、私からの大きな抱擁とこの上ない大きな祝福を。

ヴィンチェンツォ・チマッティ神父