来日初期のチマッティ神父
一行は、1925年12月29日ジェノワ港を出て、1926年2月8日門司港に入った。すぐに司教に挨拶するため長崎へおもむき、17日に目的地の宮崎に着いた。そこで、難しい日本語の勉強と新しい生活に慣れることに一年をあてた後、1927年2月から、パリミッションが譲ってくれた宮崎、大分、中津の三つの教会を受け継いで、チマッティ神父は宮崎教会の主任司祭となった。
1928年、宮崎県と大分県は独立宣教地区として認められ、1935年に知牧区となった。チマッティ神父はその教区長の任務を負い、その指導の元で田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会が設立され、信徒数も年々増えてきた。
1930年、若い神学生9人と、サレジアン・シスターズ6人が来日した。働き手が増えたが、神学生を養成する場所や人材が必要となったが、1929年の世界経済大恐慌により、日本も大変な不景気に陥っていた。事業を支えるためのチマッティ神父の苦労が言葉で言い表せないほどであった。「パンがない」と、イタリアの本部に電報を打ったこともあった。
師は、日本を神へ導くため日本人が必要である、と確信していた。そのため、邦人司祭を養成することは急務だと考えていた。その目的で、1933年、宮崎で小神学校(戦後の日向学院)を設立したほか、1933年、東京へ進出し三河島教会を引き受けた後、1935年、東京練馬区で修練院や神学校を設立した。同じ場所に、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校)も開校し、「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いた。
また、同じ1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持するため、また発展させるために、1937年、邦人の修道女会「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立を同サレジオ会員のCavoli神父に指示した。

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