戦前、戦時中の苦労
ところが、日本でキリスト教を伝えるのは容易ではなかった。戦前や戦時中、キリスト教は外国の宗教と見なされ、厳しく監視されていた。その状況の中で、チマッティ神父は日本の文化や考え方に深い尊敬と理解を示し、多くの人びとの心を勝ち取ることができた。
言葉の限界を超えて、音楽の才能を活かして、方々でコンサートを開き、教会に対する好感を培うように努めた。奄美大島から札幌まで、また、中国東北部(当時の満州)、北朝鮮や韓国まで足を伸ばして、2000回ほどコンサート(リンク)を開いたと言われている。資料館には、数多くのコンサートのプログラムや新聞の記事が保存されている。コンサートには、必ず宗教的な曲も入れ、その内容を説明しながら教えを伝えるようにしていた。
師は、日本の音楽の特徴もよく理解し、作曲の中にそれを入れるようにした。すでに1940年に日本語の最初のミサ曲を作曲したのはチマッティ神父である。
一年目、日本語を勉強しながら尋常小学校国語読本の歌詞を借りて31曲も作曲し(リンク)、また『細川ガラシア』のオペラ、『鉄砲伝来の歌』など、日本の自然や歴史に関する曲も数多く作曲した。  
1940年、教会の外国人責任者に対して、辞職するようにという指示が出た。最初に出したのはチマッティ神父であった。その時から宮崎を去って、東京に移った。
師の最大の悲しみは、自分が育てた邦人会員のほとんどが徴兵され、戦死するということであった。その中の4人の伝記を記した。 宣教師たちは、戦時中の困難に耐え、戦後の再建に全力を尽くした。サレジオ会は、とくに戦災孤児と新しい世代の教育に力を入れることにした。現在の日本のサレジオ会の事業の大部分は、戦後まもなくチマッティ神父の指導の元で開始されたものである。

日本での宣教と暮らし目次ページへ